高須城(海津市・旧海津町)
高木氏、徳永氏、高須松平氏の居城だった高須城
2018年09月13日
この地は、附近の土豪の一族だった高木盛兼が、文禄元(1592)年より1万石で領有していました。盛兼は豊臣秀吉に仕え、一説には小田原攻めの功績により高須城主に取りたてられたといいます。関ヶ原の戦いで西軍についた盛兼は城に籠もり戦に備えていましたが、慶長5(1600)年8月19日、東軍の福島正則の命を受けた松ノ木城(海津町松木)の徳永寿昌、今尾城(平田町今尾)の市橋長勝ら東軍勢の攻撃を受けました。「高須城主記」によると、降伏を勧める使者を受け入れた盛兼は、舟で城から逃れ去ったといいます。寿昌、長勝らは、決戦前の8月16日に丸毛兼利の福束城(安八郡輪之内町)も攻略しており、東軍の勝利へ貢献しました。
関ヶ原の戦い後は寿昌が入城、駒野城(南濃町駒野・後に廃城)も支配して5万石余を領する大名となりました。戦いの翌年には城の堀、石垣、門等の修築に着手し、三年がかりで家中屋敷や町家を建て並べ城下町を整備し、現在の町並みの基礎を築きました。
寿昌はその後、将軍上洛のための休泊施設「御茶屋屋敷」(大垣市赤坂町)を慶長9(1604)年に造営、慶長14(1609)年には金生山明星輪寺(大垣市赤坂町)の再建に尽力しました。
広徳寺(海津町高須)には、宝暦10(1760)年、寿昌の百五十回忌に建てられた墓碑が残ります。後を継いだ長子の昌重は、大坂城普請の遅延で将軍の怒りを買い除封されました。
寛永17(1640)年下総国関宿から小笠原貞信が2万2,700石で高須へ移ってきたが、度重なる洪水などに悩まされ、自ら領地替えを幕府に願い出て、元禄4(1691)年に越前国勝山へ転封となりました。
その後は天領となっていましたが、元禄13(1700)年尾張藩主徳川光友の次男で信濃国高井藩主松平義行が高須藩へ転封となり、以降、高須藩三万石として代々続きました。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS M6
H30.8.10
住所: 岐阜県海津市海津町高須町
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