小田原城・八幡山古郭東曲輪(小田原市)
戦国期小田原城の遺構が集中している場所で、当時の小田原城の主郭があったと推定される八幡山古郭東曲輪
2019年01月04日

小田原城は、15世紀前半に大森氏により築城されたと考えられています。
文亀元(1501)年までに、伊勢宗瑞(北条早雲)が大森氏から小田原城を奪い取り、二代目氏綱以降、小田原北条氏の本拠地となります。これ以降、五代氏直が豊臣秀吉との小田原合戦で開城するまで、小田原は関東支配の拠点として栄えました。
八幡山古郭は、八幡山丘陵の尾根上、標高69m付近の平坦部を中心とした戦国期小田原城の遺構が集中している場所で、当時の小田原城の主郭があったと推定されるなど、小田原城を考える上で重要な場所です。県立小田原高校校地内で行われた発掘調査では、城の虎口(こぐち)(出入り口)部分を形づくっている障子掘(しょうじぼり)(堀の中に仕切りを伴う掘)や石組を持つ大規模な井戸跡が発見されました。現在でも所々に土塁や堀が残されています。
また、小田原城の一番外側にある総構は、小田原北条氏が城と城下町を土塁や堀で囲んだ全長約9kmの防御施設です。これは天正18(1590)年の豊臣秀吉との合戦に備えて構築されたものであり、小田原城が戦国時代最大の城郭都市であったことを示す歴史的価値の高い文化遺産です。
丘陵部の総構は、自然地形を巧みに利用して築かれました。平成13年(2001)に発掘調査を行った伝肇寺西第I地点では、幅16.5m、深さ10.0mの堀が見つかっています。これは掘底に高さ1.7mの仕切りを伴う障子掘といわれる堀で、失われた土塁を含めた本来の規模は更に大規模であったと想定されます。堀の法面は、約60度の角度でほぼ直線的に立ち上がっており、この掘を乗り越えるのは困難であったことがわかります。
低地部の総構は、早川や山王川近くの湿地帯や海岸沿いの地形を巧みに利用して造られた土塁や堀で成り立っていました。早川口遺構や蓮上院などで土塁が国の史跡に指定され、残されています。そのほか現在では埋没してしまった堀や削平された土塁でも、地割や水路などから当時の総構の痕跡を見られる場所があります。
東曲輪は八幡山古郭の東寄りに位置します。平成17(2005)年に行われた発掘調査では、16世紀代の半地下式の倉庫等と考えられる方形竪穴状遺構や掘立柱建物跡が発見されたことから、戦国時代にはこうした施設を伴う曲輪のひとつであったと考えられます。
また縄文時代の土器や石鏃が出土したほか、古墳時代の方形周溝墓も発見されたことなどから、八幡山一帯では古くから人々の生活が行われていたことがわかりました。
東曲輪からは、西方に天正18(1590)年の小田原合戦の時に豊臣秀吉が本陣を据えた石垣山一夜城を望むことができます。
さらに東には、天守閣を中心に周囲に広がる小田原城下を望むことができるなど、小田原合戦の歴史の舞台や城と城下町の様子を通して、戦国時代や江戸時代の小田原城の歴史を知る上で大変貴重な場所といえます。
この土地は市民の熱意や関係者の理解と協力のもとに小田原市が取得し、国の史跡として将来にわたって保存されることとなりました。
(現地説明板などより)
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
H30.12.27
住所: 神奈川県小田原市城山3丁目
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