住吉神社(呉市〔旧豊町〕)
千砂子波止の鎮守として建立された住吉神社
2024年10月14日

御手洗の住吉神社は、千砂子波止 (ちさごはと) の鎮守として、大坂の豪商・鴻池により文政11(1828)年12月に勧請,大阪の住吉大社本殿の1/2に木取りを行い,文政13(1830)年3月15日に大阪大工によって上棟しました。
広島藩勘定奉行・筒井極人が鴻池善右衛門へ神社寄進を依頼し、ほんの座興の話が思いがけず実現した、という逸話が記録に残されています。鴻池が寄進したことで地元問屋のみならず,大阪や延岡の有力商人も境内地整備にあたり,燈籠や松等を寄進しました。明治43(1910)年には太鼓橋が木造から石造に直されています。
境内の埋め立てでは、御手洗にあった4つの茶屋、若胡子屋・藤屋・堺屋・扇屋の遊女たちが、衣装を替えながら砂持を行いました。遷宮式でも、遊女たちが花魁道中を行い竜宮城の乙姫や官女、浦島太郎を演じるなど、住吉神社の造営事業に彩りを添え、各地から見物客が押しかけたそうです。玉垣に刻みつけられた源氏名の数々を見れば、住吉神社造営に懸けた遊女たちの献身ぶりがうかがえます。
本殿は、大坂の住吉神社を2分の1の大きさにかたどったもので、懸魚や破風の金具に至るまでそっくり真似ています。わざわざ大坂で造らせてから船に乗せ、ここで組み立てられたとされるもので、覆屋・玉垣とともに平成8(1996) 年に広島県の重要文化財に指定されています。
母屋造の様式を備えた拝殿は、創建時に御手洗の人たちの寄進によって建立されましたが、平成3(1991) 年の台風19号で全壊したため、その後再建されています。
境内にある玉垣・石灯籠・狛犬・手水鉢などは、町内のほか各地の有力商人から寄進されており、大坂鴻池家ゆかりの豪商や遊女たちの名前も見つけることができます。
「千砂子波止」は北前船の港町としての発展を支えた全長65間(約120m)の大波止です。広島藩が御手洗の港を拡張するために築造しました。「西国無双之湊」としての地位は、19世紀以降危うくなり、廻船誘致のためより一層の港湾整備が必要とされ江戸時代後期に芸州藩が築いた防波堤で、当時の最高の技術が用いられ、中国無双と称えられました。「高燈籠」は、「千砂子波止」の突端で灯台の役目を果たしてきました。当地の庄屋金子忠左衛門が寄進したもので、当初は千砂子波止の突端にあり、木製でしたが、暴風雨によって破損したため、天保3(1832)年に石造りに建て替えられ、明治12(1879)年頃まで北前船などの航行の安全のための常夜灯として灯し続けられました。高さは6.18mで、当時の繁栄ぶりを現代に伝える歴史の証です。
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R6.9.15
住所: 広島県呉市豊町御手洗字住吉町338
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