幕末の重要な舞台となった多田家 (屋号竹原屋) の屋敷跡・七卿落遺跡
2024年10月14日
七卿落遺跡は、年寄や割庄屋役を務めた多田家 (屋号竹原屋) の屋敷跡です。当主の多田氏は、貞享2(1685) 年に吉名 (現竹原市) から分家・移住してきており、延岡藩などの船宿 (御用商人) に指定された大店です。文久3(1863)年8月18日、公武合体派のクーデターによって破れた倒幕派の公卿のうち、三条実美ら七卿が長州兵に守られて都落ちしたことは余りにも有名です。元治元(1864)年長州藩は真木和泉守を先発として兵を京都に進めましたが蛤御門の変で敗れました。
このきとき三条実美、三条西季知、四条隆謌、壬生基修、東久世通禧の五卿は京都における長州の勢力挽回と共に入京しょうとして長州を出て多度津(香川県)まで登っていましたが、京都の敗北を知り長州に引き返しました。その途中7月22日から24日にかけて、この竹原屋(庄屋)で旅の疲れをいやしたものです。
尚、この竹原屋には維新のころオランダ商館のチーレマン・パクという人が駐在して薩藤藩などと武器の密貿易もしていました
また、文久3(1863)年から慶応元(1867)年に至るまで広島番は軍艦購入のため、薩摩藩から金十万両を借り、その返済方法として、米銅、鉄、操綿などをみたらいで薩摩藩へ渡していました。(御手洗交易)
このように御手洗港が明治維新の陰の舞台となったことは歴史家の知るところであります。
昭和15(1940)年2月27日、広島県の史跡に指定されています。
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R6.9.15
住所: 広島県呉市豊町御手洗225