20120705 祇園城(小山城)③
投稿日 : 2012年07月21日
1
③の二の曲輪から①本丸への空堀に架かる橋。
馬出しの土橋に架けられて変な感じ。
この橋の位置も、かつての姿を反映したものではなさそうです。
2
二の曲輪と本丸の間の空堀(東側)。
かつての結城道が城内を通る構造でした。
その後、後北条氏の攻勢は下野南部にも及び、祇園城は陥落し後北条氏より氏照が城代となり、小山氏はその氏照配下という立場になってしまいます。
そして北関東進出の拠点として改修を受け、このころ祇園城は最大規模になっていたと思われます。
3
二の曲輪と本丸の間の空堀(西側)。
結城道は思川の河原の渡し場より渡舟で対岸に続いていました。
関東全域の支配を目論んでいた後北条氏も、その後豊臣秀吉によって滅ぼされ、後北条氏に従っていた小山氏も滅亡しました。
4
左上
①本丸です。
右上
本丸北側の土塁。
高さ3mほどもある見事な土塁です。
左下
本丸東側にも土塁が残っています。
右下
本丸西側、思川の側にも土塁があったようです。
5
本丸の南側を走る県道31号が、さしずめ現在の結城道ってところでしょうか。
後北条氏の滅亡後の祇園城は、関東に転封した徳川家康の家臣 本多正純が入封しますが、その後正純が宇都宮城へ転封し、祇園城はそのまま廃城になったようです。
6
左上
県道に面した城山公園入口。
右上
橋の上から見た祇園城。
城だか何だか分かりません。
左下
現在の城山公園は高さ10mほどの台地のみですが、東側の住宅地の迫ったこの部分は堀だったそうです。
右下
本丸東側、道路の横が高台になっています。
おそらくここまで堀跡と思いますが、幅が4,50mはありそうです。
城山公園のある台地は、せいぜい高さ10m程度。
少々防御性の心許ない本丸に見えますが、南側の県道を渡った先もかつては城域でした。
江戸時代には、将軍の日光参詣の際に使用された小山御殿もこの付近にあり、現在も残る太鼓曲輪は祇園城の遺構だそうです。
そして小山御殿跡に建つ小山市役所には、関ヶ原の合戦前夜の小山評定の碑があります。
ですが、この本丸南側の遺構は見逃してしまった・・・
7
天然の堀となっていた思川。
ちなみに小山評定とは・・・
関ヶ原の合戦の前、豊臣家大老だった徳川家康が率いる上杉討伐軍が小山に到着したころに、石田三成挙兵の知らせが届きました。
そして関係諸将と今後の対応を話しあったのが小山評定です。
8
住宅地を通って駐車場へ戻ります。
将軍の日光参詣の際の休憩所 小山御殿は、家康ゆかりの場所ということで選地されたようです。
左上
本丸と二の曲輪の空堀。
かつての結城道は、住宅地の中に道が続いています。
右上
二の曲輪の東側。
この辺もかつては堀だったと思われます。
左下
二の曲輪と塚田曲輪や駐車場の堀。
右下
駐車場脇のクランク。
かつての曲輪の形状と関連がありそうな雰囲気。
ほぼ市街地に埋もれているものと思い込んでいた祇園城ですが、残された遺構だけでもとてもすばらしく見ごたえがありました。
タグ
関連コンテンツ( 祇園城 の関連コンテンツ )
関連リンク
おすすめアイテム
[PR]Yahoo!ショッピング