20120705 祇園城(小山城)②
投稿日 : 2012年07月21日
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ゲートボール場の横にあったほぼ真四角の高まり。
遺構なのかよく分かりませんが、井戸並屋形とういう標柱が立ってました。
堀はこの先は駐車場になって、さらにその先には段差も無く国道4号線が見えていたので、お寺のある天翁院曲輪へ向かいました。
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小山氏の菩提寺、天翁院です。
墓地には、小山氏累代のお墓もあったそうですが見逃しました。
小山氏は、室町時代には下野守護職だった名家でしたが、同じ下野国には宇都宮氏というこれまた古い豪族がおり、こちらもかつて下野守護職だった名家でした。
小山氏と宇都宮氏は度々抗争を繰り返し、室町幕府が関東安定のために設立した鎌倉府に従わないこともしばしば。
内戦の中止命令に従わなかった小山氏は、鎌倉府の追討軍によって小山氏宗家は滅亡させられました。
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左上
天翁院曲輪はかなり広く、本堂の裏手の林の中に広がっています。
右上
先ほどのゲートボール場のあった堀とは別の、天翁院曲輪内部にある空堀。
写真じゃよく分からないけど。
左下
塚田曲輪と堀を挟んで北側にある馬出しに繫がる土橋。
右下
馬出しは、北久保曲輪というそうです。
4
北久保曲輪の空堀を、少し離れたところから見るとこんな感じ。
興味無い人が見ても何だか分からないよねww
小山氏宗家の滅亡後、名家の名跡が絶えることを惜しまれ、鎌倉公方の命により同族の結城家より後継が選ばれ再興します。
しかし、かつての勢いまで復活することは無かったようです。
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左上
天翁院曲輪の北側には、土塁と空堀が残っています。
右上
思川の河原から国道4号線までの約300m、低いですが土塁が残っています。
左下
土塁の先は、浅い空堀が残っています。
ここまでが、城域の北限のようです。
右下
かつての奥州街道(日光街道)国道4号線。
城域の東側がどこまでだったのかは分かりませんが、北限の空堀跡は、この道路のすぐ傍まで伸びています。
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左上
駐車場まで戻り、④の塚田曲輪と③の二の曲輪を隔てる堀を渡り、今度は南側へ進みます。
かつてもここに橋があったのかどうかは不明です。
右上
橋の西側、思川の河原側の堀です。
幅約30m深さ10mほどで、湧水があるらしく小川が流れています。
左下
③の二の曲輪内部は公園らしい芝生広場。
右下
塚田曲輪のある北側には、大きな土塁が残っています。
ここほど大きくないですが、東側にも土塁が残っています。
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左上
二の曲輪の東南角付近にある土盛。
櫓台の跡だそうです。
右上
二の曲輪の西南の角には馬出し②があり、空堀で区切られてます。
左下
同じく馬出し②の空堀。
幅20m、深さは7,8mかな。大分埋まっている様子。
右下
②馬出しです。
二の曲輪より1mほど高くなっていて、ここが本丸だとする説もあります。
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②馬出しの空堀。
いかにも公園って感じの芝生広場に、こんな空堀が残っているとは。
その後の小山氏は、結城氏と協力して宇都宮氏等と対抗していきますが、関東南部では新興勢力の後北条氏が台頭し、次第にその影響を受けることになります。
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