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まとめ記事

GT-R VS ロータリー

徳小寺 無恒さん
2020/09/20
1,768

ハコスカGT-R と ロータリー の仁義なき戦いについて、その細かい戦歴や進化について意外に知られていない。
そこで簡単にだが、GT-R と ロータリー が如何に対峙して、進化していったか、そして、そのフィロソフィは今に生きているのかをまとめてみた。
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前々回のブログでマツダの歴史について述べたが、皆さんはコスモスポーツが「スポーツ」の名に恥じない充分なモータースポーツ活動をしていた事をご存知だろうか? 国内では、コスモスポーツのモータースポーツへの参加は積極的ではなかったが、なんと当時のマツダは、国内のレースシーンでロータリーの潜在能力を見せ付けるより、いきなり国際的な知名度の高いレースに参加する事によって一気に国内も国際的にも「マツダ」のブランドと、「ロータリー」の実力を世に示そう・・・と画策したのだ。。。 コスモスポーツは1967年5月に世界初のロータリー搭載車として開発した美しいツゥーシーター・ノッチバック・クーペであるが、マツダは広島の宇品工場内に「コスモスポーツ」専用のラインを造り、並々ならぬ意欲で、ほとんどハンドメイドに近いライン化による量産を始めていた。 しかしながら正直なところ、日本国内では後発メーカーの悲しさ・・・、たとえ「ロータリー」をもってしても大幅な拡販には繋がらない・・・という判断が働き、勢い輸出にもウェートを占めよう・・・という苦肉の策で突然の国際的なレースへの参加となったのだ。。 選 ...出典:徳小寺 無恒さん
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ニュルでの一応の成果を上げた「マツダ」は、翌年69年には「コスモスポーツ」から本格的ロータリー量産車「ファミリアロータリー・クーペ」を、欧州に繰り出す事になった。。。 ファミリア・ロータリー・クーペは、その優しげな外観とはまったく異なり、まったくのじゃじゃ馬であった。 とにかくリヤの板バネが、ロータリーのパワーを吸収できなくて、発進時にはジャダーを起こすわ、比較的柔らかい足回りだったせいもあって、高速走行では路面のコンタクト感が希薄で、まさにCMのキャッチの通り「飛んでいる感じ」であった。 それにしても、当時からマツダの広告はオシャレである。 まともにクルマを写すのではなく、クルマのサイドウインドに写した姿を使うなんて・・・ 話は欧州へのチャレンジに戻るが・・・ 欧州のレース用として、「マツダ」は吸気ポートを完全な「ペリフェラルポート」とし、まったくレースに適した仕様に変更した。 馬力も耐久性に自信を持てたので、耐久レース仕様でも170PS/8000min-1と大幅にポテンシャルが向上していた。 ブレーキも4輪ベンチレーテッドディスクとし、ホイールのサイズもエンジ ...出典:徳小寺 無恒さん
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海外で華々しい活躍を続ける「ロータリー」。 その国内への登場が噂されては消え、また噂されて・・・という状態が続いたが、「マツダ」は続けて欧州へのチャレンジに注力しよう・・・という腹づもりだったのだが、費用の面、そしてやはり国内で直接レースをやった方が、ダイレクトに宣伝効果があるという判断から、そのチャンスを狙っていたのだ。 日本グランプリに合わせて'70年5月から、ロータリー・クーペ用の「スポーツキット」の発売をし、よいよ「王者GT-R」との戦いの火蓋が切って落とされたのである! GT-Rは'69年10月の日本グランプリからルーカス製のフェールインジェクションを搭載し、240PS/8400min-1、21.4Kg-m/6800min-1を誇るまで成長していた。 もはやR380を馬力では超えようとしていたのだ! 一方のロータリークーペも、欧州での転戦でさらにチューニングの見直しが行われ200PS/9500min-1 !!を発揮するまでに至っていた。 馬力ではGT-Rが圧倒的に有利だが、実際には軽量でコンパクトなロータリークーペの戦闘力は侮れないものがあった。 ...出典:徳小寺 無恒さん
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'70年の日本グランプリ以降も、ロータリー対GT-Rの仁義無き戦いは続いたが、クルマとしてのトータルヴァランスでは、やはりGT-Rが勝っており、もはやファミリア・ロータリー・クーペではGT-Rを駆逐できない事は誰の眼で見ても明白な事実であった。 しかも、この年のJAFの技術委員会で、「マツダ」にとって衝撃的なルールの変更がなされてしまったのだ。。 つまり、構造が市販車より大幅に逸脱してはならない。。。という理由から、これまで許容されていた「ペリフェラルポート」が禁止され、市販車と同じサイドポートの吸気方式で戦わなくてはならなくなったのだ。。 ローターリーエンジンの構造上、高速型つまりレース向きにはペリフェラルポートが最適で、皮肉にも世界で唯一ロータリーの市販化開発に成功する「礎」となったマツダ方式、「サイドポート方式」では中低速には適しているが、高速域では吸排気のオーヴァーラップが広く取れなくなり、大幅な馬力の向上が難しくなってしまったのだ。。。 これはレシプロで言えば、「カムシャフト」の変更が許されない・・事と同じで、「マツダ」はサイドポートでレースを戦ってゆく技術の開 ...出典:徳小寺 無恒さん
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GT-Rの登場から一年余りという短い期間で、ロータリー・クーペの挑戦を受け、思わぬ苦戦を強いられたGT-Rだが、たび重なるロータリーの攻撃にもGT-Rは臆することなく撃破してきた。。 その姿から、GT-Rは安穏としてロータリー勢の挑戦を受けていた様にも見えるが、その影では人知れず血の滲むような努力を重ねていたのであった。 GT-Rを王者としてサーキットで君臨させ続けるには、意外にも地味で時間の掛かるテーマの克服が必要であった。 具体的には 1).空気抵抗の削減 2).足回りの改良によるコーナリングスピードの向上 3).エンジンの馬力のアップ 4).車両重量の軽量化 といった、言われてみれば、どれもがごく当たり前の事ばかりなのであるが、それを実現するには、どれも地道で時間のかかる作業ばかりであった。。。 1).空気抵抗の削減 2).足回りの改良によるコーナリングスピードの向上 クルマの高速化を阻害する要因として重要なファクターを占めるのが「走行抵抗」である。 「走行抵抗」は「転がり抵抗」+「空気抵抗」と考えられ、特に「空気抵抗」は速度の二乗に効いて来るので、いかに「 ...出典:徳小寺 無恒さん
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空力的にも足回りにも、地道な改良が加えられたGT-Rだが、さらに「上」を目指さなければロータリーには勝てない・・ 技術に足踏みは許されないのだ・・・ 考えてみれば、今の技術でも2LのDOHCエンジンとはいえ、NAで240PSを超える事はなかなか難しいことである。。 しかし、それを超えなければ「勝利」は手に届かないモノになってしまうのだ。 次にGT-Rに課せられた課題は・・ 3).エンジンの馬力のアップ 4).車両重量の軽量化 の二点であった。 まずエンジンの馬力向上だが、R380で得られたノウハウを駆使し、まずはシンダーヘッド周りの改良に取り組んだ。 具体的にはレシプロエンジンの「要」であるカムシャフトも数十種類を作り、それぞれを試験し、一番吸気効率の良いモノを選んだ。 ポートの形状についても試行錯誤して、さらに吸気の効率を上げた・・・ エンジンというものは、如何に効率よく空気を吸って、適切な量の燃料を、タイミング良く吸い込んだ空気に送れるかが勝負である。 適切な量の燃料を、適切なタイミングで・・となると、もはや機械式のキャブレターでは対応が困難になってくる・・ ...出典:徳小寺 無恒さん
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1971年12月・・・ 突き抜けるような快晴の元、霊峰富士が見守る中、その激戦が始まった。。。 「富士ツーリスト・トロフィ500マイル」、通称「富士TT500」が行われたのだ。 午前11時10分 ルマン式スタートによって、色とりどりのカラーリングのマシンがコースに突入した。 このレースこそ歴史に残る「日産」対「マツダ」の死闘になろうとは誰が予測しただろうか? 日産は「GT-Rの50勝」、「ワークス出場30連勝」に王手をかけており、その歴史的瞬間を捉えようと、コース内に20数台のカメラを用意していた。 さらに、「打倒ロータリー」の為に、ワークスのハードトップGT-R 3台 、その援護の為にプライヴェートとはいえ、セミワークスともいえる 5台 のGT-Rの 計8台 のGT-Rを送り込んで来た。 さらに、より勝利を確実にするためと、プライヴェートのファミリア・ロータリー・クーペの「駆逐」も狙って、インジェクション仕様のブルーバード1800SSSとサニー・クーペまでもが集結した。 一方の「マツダ」陣営だが、カペラ・ロータリーが 2台、10A搭載のサヴァンナが 1台、セ ...出典:徳小寺 無恒さん
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1970年の春、日産村山のテストコースを1台の覆面をしたクルマが走っていた。。。 そのクルマこそが、日産ワークス待望の型式名「KPGC10」2ドアハードトップGT-Rであった。。。 通常、4ドアベースのクルマを2ドア車、しかもHTに仕上げると重量が増したり、ボディ剛性が悪くなるのが通例だが、このGT-Rだけは違っていた。 その秘密は・・・ボディサイズを見れば一目瞭然であった。 4ドアGT-Rに比べて、全長は65mm短く、幅は55mm広く、全高は15mm低くしつらえていた。 なんと言っても、回頭性の向上の為にホイールベースが70mmも短縮されていたのだ。。。 なぜ、日産は通常居住性や生産性の悪化を恐れて、同じ車種にサイズの違うクルマを造る事を嫌う中で、運動性を上げるためとは言えダウンサイジングをしたのか? ここに、興味深いデーターがある。。 KPGC10 馬力250ps、車両重量1030Kg、空気抵抗係数0.00516 ファミリア・ロータリー・クーペ 馬力200ps、車両重量810Kg、空気抵抗係数0.00389 カペラ・ロータリー・クーペ 馬力230ps、車両重量 ...出典:徳小寺 無恒さん
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スカイラインが大柄で空気抵抗が大きく、重量も削減できない・・といった制約を2ドア化、HT化によってかなり改善して、さらにエンジンのチューニングによって戦闘力を増す中、マツダは、相変わらず苦しい戦いを強いられてきた。 全ては、吸気の方式を「ペリフェラル・ポート」から「市販車」と同じ「サイド・ポート」にレギュレーションが決められてしまったからだ。。。 「サイド・ポート」では、吸気と排気の「オーヴァーラップ」が大きく取る事が出来ず、高速域でのパワーアップが非常に困難になってしまうのだ。。。 さらに、「サイド・ポート」では、吸気の吸入経路が90度曲がってしまうので、意外な程、吸気の抵抗が増し、レスポンスにも影響を及ぼしていたのだ。。。 マツダは、1970年カペラを発売し、それまでの「ロータリー・クーペ」の「10Aロータリー」より排気量の大きな「12Aロータリー」を搭載させた。 この時点では、実は「ペリフェラル・ポート」での開発が終わっており、250PSを軽く超えていたが、「サイド・ポート」になると220~230PSしか馬力が望めなかった。。。 しかし、マツダ勢にとって、 ...出典:徳小寺 無恒さん
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ロータリー勢が「サイド・ポート」の馬力向上に苦心、光明を得ていた時、ライヴァルGT-Rは豪雨の中、「50勝」という大きな節目を迎えていた。 詳細は 「豪雨 ハコスカGT-R 50勝目豪雨の勝利」: http://carlife.carview.co.jp/User.asp?UserDiaryID=202334 を見て頂ければ幸いだが、ここで少し補足したいと思う。。 '72年3月20日72年富士グランドチャンピオンシリーズ第一戦「富士300キロレース」に「高橋国光」と「都平健二」の操る、HT GT-Rが参戦した。。。 このレースに出場していたのは、トヨタからセリカ1600GTが三台とマークⅡGSSターボが一台。。 一方のロータリー勢は、寺田陽次郎のカペラと岡本安弘のサヴァンナの二台が出場していた。 折りからの強力な低気圧の接近に伴い、風速18m/secという強風と、横殴りの豪雨の中、レースは始まった。 二台のGT-Rは、スタートと共にトップを奪い、恐ろしいペースで後続を引き離した。 前半は溝の深いタイヤを履いた都平GT-Rが先行したが、溝の浅いタイヤを履いた高橋G ...出典:徳小寺 無恒さん
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右の画像は「日産プリンスR380」に搭載された「GR8」エンジンのベンチテストの貴重な画像である。 この「GR8」は開発当初は200PSを少しオーヴァーするパフォーマンスであったが、最終的には255PSまで馬力が向上 した。 そして、GT-Rに搭載された「S20」エンジンは、当時から盛んに「R380のエンジンをディチューンした」と宣伝されていた。。 実は「GT-Rとロータリー」のサーキットでの歴史を語り、あと二回で終わりを告げるはずであったが、昔から言われ続けていた、「S20エンジン排気量」に絡んだ動きについて、関係者が多く語らない事実を、ブログする事にしたのだ。。。 ロータリーとの過激な戦いの中で、メーカー内部にどんな葛藤があったか・・・ これまでのシリーズを読んで頂いた皆さんには知って欲しかったので、ブログしようと思ったのだ。。。 まずは「S20エンジン」の真実であるが・・・ この「S20」という呼称は、日産のエンジン呼称である事は、明白な事実であるが、本当の名称は「GR8B」であった。 つまり、このエンジンはまったくのプリンス技術陣オリジナルのエンジンであ ...出典:徳小寺 無恒さん
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世代交代を思わせる5月に日本GPの敗退で、マスコミや多くのレースファンの中からも「GT-Rの時代は終わった・・」との声が盛んに聞かれるようになった。。。 事実、この年の9月には、新しいスカイラン「ケンメリ」の登場がハッキリと分かっていたので、無理からぬことではあったが。。。 GT-Rにとって悪夢の5月からひと月後の6月。 そんな雑音を掻き消すかのごとく、GT-Rは富士グランドチャンピオン戦第二戦に出場した。 このレースはGT-Rのホームグランドである、富士の6kmフルコースで行われる。 6Kmフルコースに合わせてGT-Rは完璧なまでにセッティングがされていたのである。 このフルコースのテクニカルなコーナーを、日産パイロットたちの「秘儀」と「神業」を駆使すれば生き返るに違いない・・・そう思ったファンも少なからずいた事も事実である。。 「かつては、フロントローが当たり前のGT-Rだったのに・・・」 レースの予選が終わった・・・ GT-R勢のはかない望みも「サヴァンナ」が打ち砕いてしまったのだ。。 GT-R乗りの「北野」、「都平」のテクニックを持ってしても ...出典:徳小寺 無恒さん
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次々と襲い掛かる「ロータリー」の挑戦にも、持てる力を振り絞って闘ってきた KPGC10 GT-R にも、よいよ終焉の時がやって来ようとしていた。 1972年9月、スカイラインは4代目となる「ケンメリ」スカイラインをリリースした。 もはやそこには、力強さとか究極の早さ・・といった言葉はどこにも見当たらなかった。。。 なにより、一回り大きくなったボディが、レースカーにとって決定的に不利であることは、誰の目からみても明らかだった。。 それでも6月の北野操るGT-Rの気迫のこもった走りに、多くのファンが、「次」を期待したのは無理からぬ事であった。。。 しかしその事が、逆にマツダの闘争心に火をつけてしまった事は、なんとも皮肉な事では無かったのだろうか。。。 10月10日 ついに、その日がやって来た。 北野GT-Rとの敗北を受けて、再編成された「マツダ ロータリー」勢が、GT-Rのホームグランドである、富士6キロのフルコースに集結した!! 「マツダ」は二台のワークスGT-Rに対して、なんと「武智」、「従野」、「増田」、「岡本」の五台と、マツダオート東京から「寺田陽二郎」 ...出典:徳小寺 無恒さん
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