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まとめ記事
神話 櫻井 眞一郎
徳小寺 無恒さん
2020/11/14
972
櫻井 眞一郎 氏が亡くなって来年の一月で10年 という節目を迎えるが、まだまだ各所で櫻井氏の話題が尽きる事はない無い。確かに稀代のエンジニアであることは間違いないのだが、櫻井氏 の考え方や行動が果たして、現代の企業のシステムや人間関係にも当てはまるのか、それは大いに議論の余地があるだろう。それでも 櫻井氏 の話題が尽きないのは、それまでのクルマの開発には単純な工業製品というスタンスだったところに、人間性とか感性というモノを取り入れたからに他ならないと思うのだ。櫻井氏とクルマの存在は、もはや神話となってしまったのかもしれない。そんな櫻井氏の足跡を引き続き追ってみたい。
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スカイラインのレースの歴史を紐解くには、「スカイライン・スポーツ」の存在を忘れる訳にはいかないだろう。 もちろん、その前に存在した初代スカイライン「ALSI-Ⅱ」のラリーでの活躍もあるが、 ラリーのスカイライン 誰も知らない海外でのチャレンジ!! http://u14sss22ltd.fc2web.com/combat/alsi/alsi.html レースに限れば、やはり1963年5月3日に行われた「第一回日本GP」での「スカイライン・スポーツ」のハナシをせねばなるまい。 鈴鹿サーキットのこけら落とし、そして国際自動車連盟も公認する日本初の本格的なレースが「第一回日本GP」であった。 プリンスは当時、日本の市販車の2Lクラスで最強のエンヂンを搭載していた「スカイライン・スポーツ」と「グロリア」を参加させた。 GPが始まる前に各メーカーが集まり 一切の改造はしてはいけない という日本自動車工業会の申し合わせに従い一切の改造をしていなかったが・・・ 実際には、プリンスを除くライヴァル・メーカーは、レースのレギュレーションギリギリの改造を行ってレースに望 ...出典:徳小寺 無恒さん
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失敗の許されないプリンスは、櫻井を中心に競技規則を徹底的に勉強して規定ギリギリの改造を行った。。。 車種は2Lの「グロリア」と1.5Lの「スカイライン」であった。 櫻井の野望は 1000~2000 CC のグランドツゥーリングカークラス(GT-Ⅱ)のクラス制覇であったが、どうもスカイラインの走りが思わしくなかった。。 63年の11月からは、鈴鹿にマシンを持ち込んでテストを始めたが、鈴鹿の奥のスプーンカーブの立ち上がりで芳しくないのだ。 櫻井は自身でスティアリングを握り、急なコーナーを減速して立ち上がりで床が抜けるくらいガスペダルを踏むがスカイラインは思った様な加速をしてくれなかった。。。 何度も何度もエンヂンの調整をするが、それでも満足のゆかない櫻井にひとつの閃きが起きた。 「一緒に走っているグロリアの2000 CCのエンヂンを積んだらいい・・・」 櫻井は上司に掛け合った。 「アレにグロリアのエンヂンを積みたいんですが」 「お前は馬鹿か!?あんなでっかいエンヂンを積んだら、クルマが真っ直ぐ走らないで、その場で回っちゃうぞ!!」 「そんな事はありませ ...出典:徳小寺 無恒さん
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PGC10、ハコスカGT-Rが出た時、僕はスティアリングを見て心がときめいた。 そこには、懐かしい 「Prince」 の文字が重ねられてホーンボタンに刻まれていたからだ。 かつてのプリンスのクルマたちのマークは、当然ながら 「Prince」 の「P」をモチーフにしたモノだったが R380-TYPE1 そのノーズには「PRINCE MOTERS 」 のマークが輝いていた。 その栄光の歴史に影が。日産との合併が決まり、スカイライン も 「プリンス スカイライン」 から 「日産プリンス スカイライン」 になり、遂には 「日産スカイライン」 になったのだが。 二代目スカイランの途中から、「Prince」 の 「P」 をモチーフにしたマークに変わっていた。 「Prince」 の 「P」 をモチーフにした新しいデザインのマークを掲げた S54B-Ⅲ それでも、よいよ 「Prince」 の息吹は新しい スカイライン (三代目) では消えてしまうのかと思っていた矢先の GT-R のスティアリング の 「NissanPrince」 のマークだ、開発陣の ...出典:徳小寺 無恒さん
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最近の某IT企業やマンション会社による騒動は色々と考えさせられる。 特にこれらの企業だけに限った問題ではないが、上司と部下との関係が、どうもココに来ておかしくなって来たのではないかと思うのだ。 これは部下がやった事だ、私は言っていない・・・ まぁ真実もあるだろうが、どうも「うさん臭い」感じがしているのは私だけではないだろう。 そんな時、会社における人間関係を考える時に、よく引き合いに出す、櫻井眞一郎というエンジニアについて考えた時、実は個人の才覚だけでなく、上司というものによっても、個人の能力は形成されるのではないかと思うようになったのだ。 そう思ったのは、実はこんなエピソードを思い出したからだ・・・ 1969年日産は打倒ポルシェを目指して、新たなるマシンを開発していた。 当時のGPマシンの開発は、市販車・・・つまりスカイラインの開発と共に櫻井氏が行っていた事は有名なハナシである。 前年の'68年のGPでは、R381がエンジンの開発が間に合わず、シヴォレーエンジンで薄氷を踏む勝利を得たが、GP後にはその勝利のひとつの要因であった可変リヤウイング「エアロスタビライザ ...出典:徳小寺 無恒さん
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懐かしい広告が出て来た。 あまり氏は、公になる事を良しとしなかった人だが、内容を読むと、短いコメントに、この当時から彼一流の論理があった事を伺わせる一級の資料だと思う。 氏のクルマ・・・もうスカイラインそのものだろうが、よく「浪花節」だとか、ローカルカーだと言われる事がある。それは、あくまで日本という国情や風土にマッチしたクルマ造りを指して言うのかも知れない。 2Lに拘って、5ナンバーの枠を超えることを、頑なに拒んだ姿をそう言わしめたのかも知れない。 僕のクルマに対する思いや考え方については、多分に氏の影響が大きいと思う。印象に残った氏の言葉を言えと言うと、澱みなくスラスラと出てくるのだから間違いないだろう。 この広告を読んでいて、フト思い出した氏の言葉たちが 「クルマに 痛い と言わせることができるだろうか」 「ドライヴァーが手足の様にクルマを扱うと同時に、クルマの方からフィードバックがあるような、つまり手足をつねれば痛いと感じるように、クルマの方から自然にドライヴァーに語り掛けて来る様なクルマが出来ないか」 「それは警報ブザーなんていう不自然なモ ...出典:徳小寺 無恒さん
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今週は奇しくも スカイライン の、それも ジャパン と呼ばれていた C210 の色々な資料の庫出しとなた。 自らを日本のクルマ「ジャパン」と公言した、その自信はなんだったのか?決して、ストレイトシックスらしい、シルキーでもパワフルでもない、重く眠たい L20E を搭載して、走りの楽しさという点では、如何ともしがたかったC210。 後にトヨタがセリカのCMで、 「名ばかりのGTは道をあける」 と明らかにC210を見下した事は、鮮明な記憶として残っている。 名将 櫻井眞一郎氏 も後日、 「東名なんかで、すぅとロータリーなんかに抜かれると、涙が出るくらい悔しくてねぇ」 と言った事はファンの間で大きな話題になった。 そのスカイラインが、ようやくそれ相当のパワーを手に入れることができたのが、ターボチャージャー付の L20ET の登場であった。 それまで、どんなに頑張っても雑誌などのテストで、160ちょとしか出なかった最高速が、過給機という現代の魔法で 195 Km/h 以上という快速を手に入れたのだ。もちろんゼロヨンも、名ばかりの・・・と揶揄した、旧態依然、古色同 ...出典:徳小寺 無恒さん
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