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まとめ記事
御朱印放浪記(千葉県)
ぎるでぃさん
2018/07/29
6,756
千葉県での御朱印求めての放浪を(もはやメモにすらなっていないかも
2018年1月12日「香取神宮」
4月9日「円福寺」「龍正院」
4月30日「本土寺」「法華経寺」「意富比神社」「稻毛浅間神社」「千葉縣護國神社」「千葉寺」「高蔵寺」「笠森寺」「玉前神社」
5月1日「清水寺」「行元寺」「遠見岬神社」「誕生寺」「天津神明宮」「浪切寺」「清澄寺」「日本寺」
5月2日「大福寺」「那古寺」「鶴谷八幡宮」「小松寺」「安房神社」「高家神社」「新勝寺」
5月3日「新勝寺(二日目)」「長勝寺」「観音教寺」「妙福寺」「満願寺」「観福寺」
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せっかく久しぶりに千葉へと着てみましたので もうちこっと足を延ばしまして 香取神宮(かとりじんぐう)へと行ってみました (幕張からここまでは高速のインターがすぐ近く在りますので移動が便利でした) こちらはうぃきによりますと ・・・ 香取神宮(かとりじんぐう)は、千葉県香取市香取にある神社。式内社(名神大社)、下総国一宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。 関東地方を中心として全国にある香取神社の総本社。茨城県鹿嶋市の鹿島神宮、茨城県神栖市の息栖神社とともに東国三社の一社[1]。また、宮中の四方拝で遥拝される一社である。 ・・・ となっています さてこちらから境内へとぼとぼと・・ こちらの楼門化をくぐりまして こちらの拝殿で参拝をしまして 無事記帳していただきました出典:ぎるでぃさん
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4月9日 清滝寺の後すっかり夕暮れな雰囲気になっちゃったので 夜のうちに次の目的地の銚子方面へと移動しまして 某道の駅で車中泊をしまして 翌朝 円福寺(えんぷくじ)へと行ってみました ここは飯沼観音とも言われているそうでして いつものごとくうぃきによりますと ・・・ 寺伝によれば、神亀元年(724年)、漁師が十一面観世音菩薩を網ですくい上げ、その後、弘仁年間(810年 - 824年)この地を訪れた空海(弘法大師)が開眼したという。鎌倉時代以降はこの地を治めた海上氏の帰依を受け、寺運は興隆した。天正19年(1591年)に徳川家康に朱印を賜わり諸堂を整備。 天正6年(1578年)には8間4方の観音堂を建てた。元禄15年(1702年)鐘楼、多宝塔を焼失。安永2年(1773年)には観音堂を10間4方に改築、ほかには仁王門・鐘楼・多宝塔などの諸堂を整備したが、昭和20年(1945年)に空襲で多宝塔以下観音堂、仁王門、鐘楼、太子堂、馬頭観音堂、二十三夜堂、荼枳尼天堂、龍蔵大権現堂(現・銚港神社)など諸堂を焼失した[1]。 ・・・ となっていまして・・ 坂東三十三観音霊場の第27番札 ...出典:ぎるでぃさん
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4月9日 息栖神社の次に 龍正院(りゅうしょういん) へと行ってみました ここは滑河観音(なめがわかんのん)とも言われているようです こちらはうぃきによりますと ・・・ 承和5年(838年)、滑河城主の小田将治が発願し、慈覚大師円仁が開山したと伝えられる。本尊の体内に納められている1寸2分の観音像は、小田将治が出会った老僧が小田川よりすくい上げたものとされている。 ・・・ となっていまして・・ 坂東三十三観音霊場第28番札所 です なかなかの雰囲気の仁王門を拝んで境内へ こちらの観音堂でお参りをしまして 無事記帳していただきました出典:ぎるでぃさん
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4月30日 ふとゴールデンウイークどうしようかなと思って 時間があるときに坂東の観音霊場を巡ってみようと思い立ち 残りは千葉県となりましたので 思いつくままに他のお寺さんとか神社とかのの御朱印も集めてみようかなと思ってみたりで まずは 本土寺(ほんどじ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 本土寺は、池上の長栄山本門寺、鎌倉の長興山妙本寺とともに「朗門の三長三本」(さんちょうさんぼん)(新潟県三条市の長久山本成寺を含めて四長四本ということもある)と称されている。「朗門」とは日蓮の弟子日朗の門流という意味であり、「三長三本」とは、上記3か寺の山号寺号にいずれも「長」「本」の字が含まれることによる。 近年、境内には茶室も整備され、1000本のカエデ・5000株のハナショウブ・10000株のアジサイの名所として人気を集め「あじさい寺」として親しまれている。本土寺過去帳は、歴史を語る重要な資料である。 現住は62世三田村日正貫首(逗子市法勝寺より晋山)。奠師法縁(奠統会)。 ・・・ となっています さて こちらの山門から境内へ 五重塔 アジサイは ...出典:ぎるでぃさん
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4月30日 本土寺の次に 某ネットで日蓮宗五大本山というものを見かけまして 何気に眺めていますと千葉県にほとんど鎮座しているみたいなので せっかくですのでこそぉりと訪ねてみることに まずは 法華経寺(ほけきょうじ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 法華経寺(ほけきょうじ)は、千葉県市川市中山二丁目にある日蓮宗大本山の寺院である。鎌倉時代の文応元年(1260年)創立。中山法華経寺とも呼ばれる。山号は正中山。日蓮の説法と安息の地であり、境内の鬼子母神も広く信仰を集めている。いわゆる中山三法類(親師法縁、達師法縁、堺法縁)の縁頭寺である。 ・・・ となっています さて 今回も(?)ナビ子ちゃんは裏手側に案内をしちゃったりもしましたけれども・・・ 暫く迷子になりつつ丁度散歩中の御仁にちこと訪ねてみますと 「そこですよ」 といって森の方を ・・・・・? ( ゚д゚)ハッ!(こちらの森が境内。。。) とかすっとぼけていたことに恥じ入りつつ(←もう疲れちゃって来たのかなコノヒト) なんとか駐車場へと とりあえず・・案内図を漠然と眺めつつ(うみゅぅ・・ひろ ...出典:ぎるでぃさん
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4月30日 法華経寺の次に 意富比神社(おおひじんじゃ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 意富比神社(おおひじんじゃ)は、千葉県船橋市にある神社。式内社で、旧社格は県社。通称は船橋大神宮(ふなばしだいじんぐう)。延喜式では葛餝郡意富比神社の名称で登場する。 ・・・ となっています こちらの駐車場もちとわかりにくいところにあったりもしましたけれども こちらの鳥居をくぐりまして 参道をとぼとぼと・・ こちらの拝殿で参拝をしまして 無事記帳していただきました出典:ぎるでぃさん
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4月30日 意富比神社の次に 稻毛浅間神社(いなげせんげんじんじゃ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 稻毛浅間神社(いなげせんげんじんじゃ)は、千葉県千葉市稲毛区にある浅間神社。主祭神は木花咲耶姫命、瓊々杵命と猿田彦命を共に祀る。旧社格は村社。登記上の宗教法人名称は浅間神社(せんげんじんじゃ)。 ・・・ となっています 駐車場に車を置きまして いつもの様に一旦 こちら側から改めまして境内へ(最初間違えてこの写真の左わきの道に迷いこんじゃったのはここだけの秘密です。。) 神門をくぐりますと 手水舎が正面にありますのが珍しく感じてみたりしましたが こちらの本殿で参拝をしまして 無事記帳していただきました出典:ぎるでぃさん
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4月30日 稻毛浅間神社の次に 千葉縣護國神社(ちばけんごこくじんじゃ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 戊辰戦争から太平洋戦争に至るまで、国事に殉じた千葉県出身・由縁ある国事殉難者を祀る神社。合祀祭神は現在五万七千余柱。 ・・・ となっています こちらから境内へ とぼとぼと・・ 神門をくぐり抜けまして ちと物々しい雰囲気を感じちゃったりもします扉でしたが こちらの本殿で参拝をしまして 無事記帳していただきました 記帳待ちに社務所のなかを見回してみますと ( ゚д゚)ハッ! 連合艦隊・・・・ 震電!?零戦52?紫電改?・・武蔵? ・・・・・ほ・・欲しい(艦これ脳 プラモデルと神社って意外と親和性があるのかしら♪出典:ぎるでぃさん
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4月30日 千葉縣護國神社の次に 千葉寺(せんようじ、ちばでら)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 寺伝によれば、709年(和銅2年)、この地を訪れた東国巡錫中の行基が十一面観音を安置したのに始まり、聖武天皇の命により千葉寺と称したという。1160年(永暦元年)に堂宇を焼失している。千葉氏の居城である亥鼻城(千葉城)に近いことから千葉氏の祈願所となった。 ・・・ となっていまして・・ 坂東三十三観音霊場第29番 関東八十八箇所第47番 です こちらが仁王門でして 境内には立派な大イチョウもあります さて こちらの本堂でお参りをしまして 無事記帳していただきました出典:ぎるでぃさん
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4月30日 千葉寺の次に 高蔵寺(こうぞうじ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 高蔵寺(こうぞうじ)は、千葉県木更津市にある真言宗豊山派の寺院。山号は平野山(へいやさん)。本尊は聖観世音菩薩であり、坂東三十三観音霊場第30番札所である。通称は高倉観音(たかくらかんのん)。 ・・・ となっていまして・・ 坂東三十三観音霊場30番 です さてこちらから境内へ こちらの観音堂でお参りをしまして 無事記帳していただきました出典:ぎるでぃさん
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4月30日 高蔵寺の次に 笠森寺(かさもりじ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 寺伝によれば延暦3年(784年)に最澄(伝教大師)が楠の霊木で十一面観音菩薩を刻み安置し開基されたとされる古刹で、古来より巡礼の霊場として知られており、十一面観音像が本尊であることから「笠森観音」と通称される。 大岩の上にそびえる観音堂は、61本の柱で支えられた四方懸造と呼ばれる構造で、日本で唯一の特異な建築様式であり重要文化財である。長元元年(1028年)に後一条天皇の勅願で建立されたと伝えられているがその後焼失し、現在の建物は解体修理の際発見された墨書銘から文禄年間(1592年-1595年)の再建とされている。観音堂の 75段の階段を上がった回廊からは、四季それぞれに美しい房総の山々が眼下に眺められ、その景観は一見に価する。他にも重要文化財の鋳銅唐草文釣燈籠など多くの文化財も残されている。 ・・・ となっていまして・・ 坂東三十三箇所31番 です さて こちらから参道をとぼとぼと・・ こちらが目的地の 観音堂ですが 階段を上っていきますと 岩の上に ...出典:ぎるでぃさん
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4月30日 笠森寺の次に 玉前神社(たまさきじんじゃ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 玉前神社(たまさきじんじゃ)は、千葉県長生郡一宮町一宮にある神社。式内社(名神大社)、上総国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 ・・・ となっていまして・・ 上総国の一の宮 です もう夕方になっちゃったので間に合うか微妙でしたけれども こちらから境内へ 参道をとぼとぼと・・ 赤い鳥居の向こうに見えますのは こちらの拝殿で参拝をしまして(黒くてピカピカ♪) 無事記帳していただきました 本殿まで黒で統一♪ 敷いてあります玉石(でいいのかな?)は対照的に白くて 社殿の黒さがより一層際立って見えました♪出典:ぎるでぃさん
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5月1日 玉前神社の次は ・・・すでに日が暮れちゃったので 近くの道の駅で(毎度のことですが)車中泊しまして 翌朝 清水寺(きよみずでら)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 清水寺(きよみずでら)は、千葉県いすみ市岬町鴨根にある天台宗の寺院。山号は音羽山。本尊は千手観世音菩薩であり、坂東三十三観音霊場第32番札所である。通称は清水観音(きよみずかんのん)。 延暦年間(782年 – 806年)に最澄がこの地を訪れて草庵を結んで十一面観世音菩薩を安置し、807年(大同2年)円仁がこの地を訪れ千手観世音菩薩を刻んで安置したという。 ・・・ となっていまして・・ 坂東三十三箇所 第32番 です こちらの仁王門から境内へ 四天門 をくぐりまして こちらの本堂でお参りをしまして 無事記帳していただきました こちらの 百体観音堂には 赤穂四十七士が出典:ぎるでぃさん
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5月1日 清水寺の次に 行元寺(ぎょうがんじ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 嘉承年間(848年 - 851年)円仁によって現在の大多喜町に創建されたと伝えられ、鎌倉時代初期現在のいすみ市荻原字茶田谷に移され、行元寺と改められたという。天正年間(1573年 - 1592年)現在地に移された。古くから天台宗の拠点のひとつとなり、江戸時代には江戸幕府から朱印状を与えられていた。 ・・・ となっています さてこちらの山門をくぐり抜けまして こちらの本堂でお参りをしまして 無事記帳していただきました出典:ぎるでぃさん
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5月1日 行元寺の次に・・ 夷隅神社へ行ってみて(いなかった) 養老渓谷に行って 出世観音にも・・(いなかった) で・・水月寺(いなか・・) ・・・・・・・・・・・・・・・・。(まぁ・・たまに計画っぽいことを考えてもこんなもんさね。。) 観光をしまして 遠見岬神社(とみさきじんじゃ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 神武天皇の側近として活躍した天富命は、阿波の開拓を終えた後、東国により良い土地を求め阿波忌部氏らを率いて黒潮に乗り、房総半島南端の布良の浜に上陸した。そして祖神である天太玉命を祀る社を建て、安房の開拓を進めたがその後当地で没したという。天日鷲神の後裔の勝占の忌部須須立命は、八幡岬突端富貴島の天冨命の居跡に社殿を建立、開拓の祖神として祀ったのが当社の起こりとされている。 慶長6年(1601年)の大津波で岬突端の富貴島にあった社殿は決壊し社宝の多くが流失した。このとき決壊した社殿と御神体が高磯の浜に流れ着き、流れ着いた「宮の谷」に社殿を再造営、里見氏・安房正木氏および近郷領主の信仰が篤かったという。 その後、万治2年(1659年)に、領 ...出典:ぎるでぃさん
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5月1日 遠見岬神社の次に 誕生寺(たんじょうじ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 誕生寺(たんじょうじ)は、千葉県鴨川市小湊にある、日蓮宗の大本山。山号は小湊山。日蓮の誕生を記念して出身地に建立された。 ・・・ となっています さてこちらの総門から境内へ 仁王門をくぐりまして 残念ながら外観が拝められませんですがこちらの祖師堂でお参りをしまして 無事記帳していただきました出典:ぎるでぃさん
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5月1日 誕生寺の次に 清澄寺へと行くつもりでしたが途中で目に入って気になったので 天津神明宮(あまつしんめいぐう)に立ち寄ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 神代の昔、天孫降臨に当って国譲りした事代主神が海路当地に移り東方鎮護の神として鎮座し、これを『庤明神』と崇敬したことが当社の始まりと伝えられている。 その後、治承4年(1180年)石橋山の戦いに敗れ安房に逃れた源頼朝が源氏の再興を伊勢神宮に祈願し、御厨一処の寄進を祈誓したという[1]。また、寿永元年(1182年)に、頼朝の妻政子の安産祈願の祈祷のため、奉幣使として三浦義村が当社へ遣わされた[2]。頼朝は一ノ谷の戦いの後、寿永3年(1184年)[3]安房国に東条御厨(白浜御厨、阿摩津御厨)を設け、伊勢より神霊を勧請し以前より鎮座の『庤明神』とともに祀ったのが当社である。文治元年(1185年)には生倫神主が参籠したところ、霊夢の奇端があったので頼朝から飛龍と号する馬が奉納され[4]、以降も関東武家の崇敬を受け「房州伊勢の宮」と仰がれ今日に至ってる。 ・・・ となっています とぼとぼと この日はフリー ...出典:ぎるでぃさん
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5月1日 天津神明宮の次に 清澄寺へと行くつもりでしたが途中で目に入って気になったので 浪切不動寺へと立ち寄ってみました(また寄り道・・) そして・・ ふらりと立ち寄ったものですから 頼りのうぃきが見つからない。。。 と・・とりあえず こちらから境内へ こちらのお堂でお参りをしまして 無事記帳していただきました出典:ぎるでぃさん
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5月1日 浪切不動寺の次に 清澄寺(せいちょうじ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 寺の縁起によれば、旅の僧(聖僧)が当地を訪れて虚空蔵菩薩を祀る一寺を建立し、山岳信仰の霊場となったという。僧の素性は不明で、「不思議法師」と呼ばれた。山頂近くに古い柏の木があり怪しく千光を発していたことから山号を千光山とし、柏の木の下に水の涸れた池があって、加持すると清泉がたちまちに沸いたことから寺号を清澄寺としたという。 ・・・ となっています こちらの仁王門から境内へ こちらの祖師堂と 大堂でお参りをしまして 無事記帳していただきました 後は境内をぶらぶらと 千年杉と報恩殿と納経塔 ふらふら 奥の方にも何やら? 行ってみる? 想像以上に・・白い♪ ここだけインドっぽい異国情緒感がするような ・・・・・まぁ・・わたしインドに行ったことないのですけれどもね^^;出典:ぎるでぃさん
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5月1日 清澄寺の後 鋸山の方へと向かい 日本寺(にほんじ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 寺伝によれば、聖武天皇の勅願により、行基によって神亀2年(725年)に開山されたとされ、当初は法相宗に属していたという。 最盛期には七堂十二院百坊を有する規模を誇り、良弁、空海、円仁らが留錫(りゅうしゃく)したと伝える。良弁は木彫の大黒天を彫り、空海は100日間の護摩を焚き、石造の大黒天を彫り遺し、仁王門の金剛力士像は円仁の作とする伝承がある。 天安年間(857年 - 859年)、円仁が入寺して天台宗の寺院となったと伝え、その後、隆盛と衰退を繰り返したが、復興には源頼朝や足利尊氏の援助を受けたという。 真言宗を経て、江戸幕府三代将軍徳川家光の治世に曹洞宗に改宗した。幕府から朱印状を与えられていた。境内にある五百羅漢像(千五百羅漢)は、江戸時代後期にこの寺を復興した高雅愚伝(当寺第九世)が発願したもので、上総国望陀郡桜井村の石工・大野甚五郎英令が門弟27人と共に安永8年(1779年)より寛政10年(1798年)までの前後約21年の歳月をかけて彫ったもので ...出典:ぎるでぃさん
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5月2日 日本寺の後日も暮れちゃったので (また)某道の駅で車中泊してみまして 翌日(都合三日目になりますね) 崖の観音(崖観音)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 大福寺(だいふくじ)は、千葉県館山市船形にある、真言宗智山派の寺院。山号は船形山。院号は普門院。境内には崖造りの観音堂があり、磨崖仏として十一面観世音菩薩が刻まれている。切り立った山の中腹にあることから崖の観音(崖観音)と称される。 ・・・ となっていまして・・ 安房国札三十四観音霊場3番 です さて・・ あそこまで登るのね・・・ とぼとぼと・・ 登ってきまして こちらの観音堂でお参りをしまして 本堂のところまで戻りまして 納経所で無事記帳していただきました出典:ぎるでぃさん
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5月2日 崖の観音の次に 今回千葉県に行く最大の目的地の 坂東三十三観音霊場の最後の番所の 那古寺(なごじ)へと遂にたどり着くことに こちらはうぃきによりますと ・・・ 那古寺(なごじ)は、千葉県館山市那古にある、真言宗智山派の寺院。山号は補陀洛山。本尊は、千手観世音菩薩。坂東三十三観音霊場第33番(結願寺)[2]。通称は那古観音(なごかんのん)。 ・・・ となっていまして・・ 坂東三十三観音霊場 第33番 安房国札三十四観音霊場 第1番 関東八十八箇所 第56番 です さてこちらの仁王門から境内へ 多宝塔 こちらの観音堂でお参りをしまして 無事坂東観音霊場の最後の記帳をしていただきまして 記念に証書も作っていただきました出典:ぎるでぃさん
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5月2日 那古寺の次に 鶴谷八幡宮(つるがやはちまんぐう)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 平安時代初期、国府近くの三芳村府中(現在の南房総市)に安房国総社として創建された。鎌倉時代に入ると総社信仰が衰微し、代わって源氏の影響で八幡神信仰が高まったため、総社から改変され八幡宮となり、当初の位置から遷座するに至ったという。康応2年(1390年)には、安西八幡宮の名で資料に見える。 中世には里見氏、江戸時代には徳川幕府の崇敬を受け、社殿奉納や社領寄進を受けている。明治6年(1873年)には郷社、昭和15年(1940年)には県社に列せられた。創建1000年を迎えた昭和51年(1976年)の本殿改修に当たって、鶴谷八幡宮と改称している。 ・・・ となっています さてこちらから境内へ とぼとぼと・・ こちらの拝殿で参拝をしまして ・・・・ふと上を見上げますと 中々の彫り物が (自宅に帰ってから調べてみましたところ「百態の龍」(館山市指定文化財)らしいです そして 無事記帳もしていただきました出典:ぎるでぃさん
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5月2日 鶴谷八幡宮の次に 小松寺(こまつじ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 寺伝によると、文武天皇代に役小角が草庵を建てたのが始まりという。718年(養老2年)役小角の古蹟を調べ、巨松山檀特寺と称し創建する。831年(天長8年)円仁は山王権現を祀り、天台宗となる。920年(延喜20年)小松民部正寿は七堂伽藍を建立し、檀特山小松寺と改める。寺領500石を寄進する。1374年(応安7年)高階吉正は梵鐘を寄進する。1590年(天正18年)里見義康は寺領53石を寄進する。 ・・・ となっていまして 安房国札三十四観音霊場26番 東国花の寺百ヶ寺千葉13番 です 今回訪問するきっかけの某紙媒体によりますと 秋の紅葉やカエデが見事とのことですが・・ 今回は流石に紅葉の季節ではないので^^; まぁ。。さておき 苔が綺麗なこちらの仁王門から境内へ こちらの本堂でお参りをしまして 記帳を・・と? カラフルな御朱印が目に入り 衝動的に♪ あ・・と・・群馬? 響きにつられて(5番のねこ風というのも♪と)お願いしましたところ 住職さん「お菊さんの ...出典:ぎるでぃさん
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5月2日 小松寺の次に 洲崎神社(すさきじんじゃすのさきじんじゃ)へと行ってみましたけれども あいにくのご不在で;; 安房神社(あわじんじゃ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 千葉県南部、房総半島最南端部の吾谷山(あづちやま)山麓に鎮座する神社である。伝承では、神話時代に阿波地方(現在の徳島県)から渡ってきた忌部氏(いんべうじ、斎部氏)による創建といい、「安房」の国名・社名はこの阿波忌部の移住・開拓から起こったといわれる。 古代の安房国はアワビの貢進地として朝廷から重要視され、安房国の中心的神社である安房神社もまた古くより重要視された。特に、全国でも数少ない神郡が設置された点や、出雲国造(出雲大社奉斎氏族)・紀伊国造(和歌山の日前國懸神宮奉斎氏族)に並び安房国造が律令制下でも祭祀を担った点、および宮中の大膳職にも「御食津神」として祀られていた点が特筆される。中世以降は安房国の一宮に位置づけられ、明治維新後も近代社格制度で最高位の官幣大社に位置づけられたように、歴史を通じて崇敬を集めた古社になる。 ・・・ となっていまして 安房国の一ノ宮 です ...出典:ぎるでぃさん
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5月2日 安房神社の次に 高家神社(たかべじんじゃ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 高家神社(たかべじんじゃ)は、千葉県南房総市(旧千倉町)にある神社である。式内社で、旧社格は郷社。「料理の祖神」を祀る神社として料理関係者や醤油醸造業者などから崇敬される。 ・・・ となっていまして・・ 日本唯一料理の祖神をまつる神社だそうです さてこちらから境内へ こちらの拝殿で参拝をしまして 無事記帳していただきました出典:ぎるでぃさん
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5月2日 高家神社の次に・・・ 成田山新勝寺(なりたさん しんしょうじ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 成田山新勝寺(なりたさん しんしょうじ)は、日本の千葉県成田市にある真言宗智山派の寺院であり、同派の大本山のひとつである。山号を成田山、寺号を新勝寺というが、山号を省略せずに呼ぶのが通常で、寺号のみで呼ぶことは少なく、むしろ山号のみで呼ぶことが珍しくない。本尊は不動明王で、当寺は不動明王信仰の一大中心地である。そのため、成田不動、お不動さまなどといった通称でも広く親しまれてきた。開山は平安時代中期にあたる天慶3年(940年)と伝えられる。寺紋は葉牡丹。 ・・・ となっていまして・・ 関東三十六不動霊場三十六番札所 です 実は御朱印帳がいっぱいになったので次の御朱印帳を新調しましょうかなと 某国道を彷徨った後 向かってみたのですが ナビ子ちゃんの予想ですと午後4時半ごろの到着予定。。。 (まにあうの?) まぁ・・行ってみましたけれども 残念ながら社務所の受付のほかは午後三時半で終了らしく;; と・・とりあえず 御朱印帳と大本堂の御朱印だけ ...出典:ぎるでぃさん
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5月3日 千葉の放浪も四日目になるのかな? やっぱり大本堂以外の所の御朱印も未練がたらたらだったので 翌朝再び成田山新勝寺へと・・ 予報は雨・・ やっぱり雨 まぁ・・でも 雨ですし朝方ですしでまだ参拝客もまばらなうちにひとめぐりできるかなと 幸い雨自体はすぐにやみましたけれども 少々風模様 と・・とりあえず 昨日の続きで 平和大塔と醫王殿 光明堂 釈迦堂 出世稲荷 で無事記帳していただきました (えぇ。。本当に見事に人が映っていないですともさ。。。にわかなワタシの記憶ですと一応歌舞伎で有名な所だったような。。はずですが出典:ぎるでぃさん
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5月3日 成田山新勝寺の次に 浪切不動へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 不動院(ふどういん)は、千葉県山武市成東にある真言宗智山派の寺院。山号は成東山。寺号は長勝寺。元々は下横地村(現在の山武市下横地)にあった円頓寺の末寺である。 標高30mの石塚山(石塚の森)の中腹の岩石上に本堂があり、入母屋造瓦葺き、間口三間、奥行四間、欄干・回廊をめぐらした懸崖造り(朱塗り)で、石積みの基壇の上に本堂内陣まで貫通している通し柱2本を含め26本の柱によって支えられている。 天平3年(731年)行基が東国巡錫の折、不動明王の尊像を刻み海難除けを祈願し開基したとされ、その後平安時代の初め弘法大師が関東教化の折、現在の場所に移し建立して民衆救護のため大護摩を催し民福増進の秘法を行ったとされる。 ・・・ となっています さて こちらの仁王門から境内へ 本堂は・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・。(高いな と・・とりあえず石段を 高いし風が吹いてるし怖いし怯えながらお参りをしまして 無事記帳していただきました出典:ぎるでぃさん
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5月3日 浪切不動の次に 観音教寺(かんのんきょうじ)へと行ってみました こちらはうぃきによりますと ・・・ 観音教寺(かんのんきょうじ)は、千葉県山武郡芝山町芝山298にある天台宗の寺院。山号は天応山。本尊は十一面観世音菩薩であり、上総国薬師如来霊場第28番(結願)、新上総国三十三観音霊場第33番(結願)、東国花の寺百ヶ寺千葉6番札所の寺である。仁王門に安置される仁王尊は、火事除け、泥棒除けの仁王尊としてしられ芝山仁王尊とも呼ばれている。境内に芝山はにわ博物館(芝山ミューゼアム)を併設している。 ・・・ となっていまして・・ 上総国薬師如来霊場第28番 新上総三十三観音霊場第33番 東国花の寺百ヶ寺 千葉6番 です こちらから境内へ 仁王門をくぐって 三重塔 本堂でお参りをしまして 無事記帳していただきました出典:ぎるでぃさん
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