とある港。やや日差しに色がついてきた。だいぶ使いこまれたコンテナに隠れる様に、黒いスカイラインが停まっていた。17分署の覆面車だ。中には、警部補と女がいた。二人ともシートを倒しリラックスしている。しかしさぼっている訳ではない。女が気だるそうな声を出した。
「…今、何時?」
腕時計を見た警部補が、似たような声の調子で答えた。
「…15時30分」
女が言った。
「いつまでここにいんのよ?」
「……定時まではいるか」
この二人がここにいる理由、それは警部補が長年使っている情報屋が今朝たれこんだ情報だった。この港で、今日の正午に某国の貨物船が到着する。その中には大量にして相当な額となる麻薬と外国の組織の大物が乗っているという。組織名は聞いたことはなかった。受け取り人は、これまた外国人だった。ミスターチャーリーと呼ばれる男だった。こちらは何度か名前を聞いたことがある人物で、生活安全課や麻薬取締局が何度も摘発を行っているが撲滅に至らず、むしろ勢力を拡大している麻薬組織の長である。ミスターチャーリーはかなり用心深い人物で、まともに撮れた写真はなく、望遠で撮れたぼんやりとした物しかない。そんな人物が出てくる取り引きが真っ昼間から行われるなどとは随分と眉唾物な話であるが、警部補は情報屋の話を信じた。その情報屋が持ってくる話はまず間違いなかったからだ。警部補は時間がなかったことから刑事課長を通さずに、パトロールや近隣の署、更には機捜隊の応援をかき集め、海上保安庁にも連絡を取り、その港を張った。貨物船が接岸する予定の岸壁に近すぎず遠すぎない場所にスカイラインを停めた。
そして現在に至る。
貨物船は確かに現れた。が、受け取り人のミスターチャーリーは来なかった。船には組織も麻薬もなかった。警部補は携帯電話で情報屋を怒鳴り散らした後、包囲体制を解いた。わざわざ、大型巡視船まで用意した海上保安庁は今頃何処に文句を言っているのか。警部補はうんざりしていた。上司に無断で、海上保安庁まで動かしたのだ。分署に戻れば、どれだけ絞られるか。警部補は分署に戻る気になれなかった。結局は戻るしかないのだが、僅かな望みをかけて、残った。何か起こるかもしれないというまったく可能性の低い望みだ。女は警部補の子供っぽさに付き合った。警部補の指示になんら反論せずに従ったのだ。一心同体だ。
女は腕時計を見た。15時48分。一心同体の心構えも、正直飽きてきていた。
「ちょっと飲み物でも買ってくるわ」
女はそう言って車を降りた。
「俺の分も頼む」
警部補はそう女に言った。頭の中では、始末書の文面を作っていた。女は港湾事務所に向かった。大体はそこに飲料の自販機があるのだ。案の定、3つ程の自販機があった。女は好みのメーカーの自販機を選ぶと、自分と警部補の缶コーヒーを買った。缶が取り口に落ちてくる。自然とため息が出た。なんて私はお人好しなんだろうと、自嘲のため息だ。その時、彼女の背後を車が走った。それはありふれた商用のワゴン車だった。港湾でも珍しくはない。しかし彼女はそれに何か違和感を感じた。
スカイラインの無線が鳴った。一斉指令だった。17分署管内で、銀行に武装強盗が押し入り立てこもっているという内容だ。場所はここからかなり離れている。警部補はこの現場を離れることに迷った。しかしそれは一瞬だった。どうせ呼び出されるに決まってる。倒していたシートを跳ね上げ、シートベルトを締める。女が戻ってきた。車内の警部補の様子に気がつき、小走りになって車に戻った。女は警部補に言った。
「どうしたの?」
「武装銀行強盗で籠城だと。ここからかなり遠いが、どうせ呼び出される」
「そうね」
女もシートベルトを締めた。再び無線が鳴った。今度は、17分署と隣の署との境界線付近で同じく銀行強盗が発生した。こちらもここからはかなり遠い。警部補は言った。
「なんだなんだ、こりゃ大忙しだな」
警部補はスカイラインを発進させようとする。その時、女が叫んだ。
「ちょっと待って!」
警部補はブレーキを踏んだ。
「なんだ!?」
警部補の問いに、女は言った。
「ちょっと待って!」
「だからなんで!?」
女は必死に考えた。無線を聞いてから、先ほどの違和感が非常に強くなったのだ。しかし、それがはっきりしない。警部補は女の足元に置いてある赤灯を取ると、ルーフに載せる。
その時、女が言った。
「綺麗過ぎた」
「なに?」
女の言葉が理解できず、警部補は上ずった声を出した。女は独り言の様に続けた。
「あの商用のワゴン、綺麗過ぎた。…そうだ、あのナンバー。レンタカーだ!」
「なんの話だ」
警部補はやや声を荒くした。女は言った。
「さっき私の後ろを、商用のワゴンが走ってったのよ。それもレンタカー」
「それがなんだ!珍しくもない」
「確かに珍しくないわ。でも無線を思い出して!」
「無線?」
「ほぼ同時に、ここから遠く離れた場所で凶悪事件が発生。一つはうちの管内、もう一つは隣との境界線」
「……パトが総動員だな」
「自ら隊や機捜も飛んでくでしょうね」
「管内は手薄だな」
「そしてここは遠く離れた場所」
女の言葉に、警部補は考え、言った。
「ワゴン車、珍しくはない。ないが、実に怪しい」
警部補は続けた。
「偽装したミスターチャーリーか……。行ってみるか。どうせ銀行に行ってもビリだしな」
警部補は、スカイラインを岸壁へと向かわせた。
警部補はある程度近づくと、スカイラインを物影に隠し、そこから岸壁を伺った。これは完全に運の問題だった。そして運は警部補達についた。女が目撃したワゴンは岸壁にいた。作業着姿の影が三人。モーターボートが接岸しており、そちらから何か受け取り、ワゴンの荷台に乗せている。動いてるのは二人。一人はただ見ているだけだ。あれが組織だとしたら、恐らくただ見ているだけなのが、ミスターチャーリーであろう。今から応援や海保を呼ぶ暇はない。警部補は女に言った。
「二兎を追う者なんとやらだ。取り引きが終わったら、あのワゴンだけ押さえる」
「OK」
二人は監視を続けた。そして、取り引きは終わった様だ。人影三人はワゴンに乗り込み、ゆっくり発進した。こちらに向かってくる。警部補が言った。
「行くぞ、車に乗れ」
「ここで撃っちゃえば!?」
「いきなり運転手ぶっ殺すわけにもいかん」
物騒なことを言いながら二人はスカイラインに乗り込む。そして警部補は物影からスカイラインを飛び出させた。ワゴンは目の前に突然現れたスカイラインに急ブレーキを踏んだ。と同時に猛烈に後退しだした。間違いない、こいつらはミスターチャーリーご一行だ。警部補はサイレンのスイッチを押し、追跡を始めた。
ワゴンは後退したまま逃げる。しかし速度は出ず、スカイラインとフロントを付き合わせるような感じになっている。女はマイクをひったくり喚いた。
「止まりなさい!」
しかし、止まれと言われて止まる犯罪者はいない。ワゴンは往生際悪く、あちこちに車体をぶつけながらそれでもバックのまま逃走を続ける。しかしいきなりワゴンの運は尽きた。横からなんの前触れもなく、大型トラックが出てきて、ワゴンの横腹に衝突した。ワゴンは一回転して止まった。警部補は急ハンドルと急ブレーキでそれをかわし、スカイラインを止めた。と同時に、警部補と女はスカイラインを素早く飛び出した。法律では、警察業務に用いられる緊急車両で、犯人逮捕に際してはシートベルト着用義務は免除されている。二人はそれぞれ、マグナムとシグをホルスターから抜くと、注意深くワゴンに近づいた。ワゴンの中の三人は気を失っていた。警部補と女は、安堵のため息を漏らした。
日付が変わった深夜。警部補と女はようやく書類整理を終えた。分署に戻ってからは二人は、まず課長に怒鳴られた。そして署長に怒鳴られ、蚊帳の外だった麻薬取締局と無駄足に終わった海保の代表からそれぞれ文句を言われた。麻薬取締局は文句を言った割には、取り調べは自分達に任せろとミスターチャーリーらをかっさらっていった。警部補と女には始末書が待っていた。唯一救いなのは、今回は拳銃を発砲していないことだろう。一枚でも二枚でも書類は少ない方が良い。書類を書き上げた二人は、とっくの前に帰宅した課長のデスクの上に、山の様な書類を置き、帰宅した。
そして数日経ったある日、警部補と女は警視庁にいた。ある場所へと向かう通路を歩く二人の姿は、珍しく制服である。警部補が言った。
「ラッキーだったな」
女が言った。
「ほんっと。ラッキーね」
ラッキーとは、あのワゴンの一件である。逮捕した三人の内の一人は、間違いなくミスターチャーリーであった。チャーリーなどと名乗っていたが、中国系アメリカ人であった。二人の内の一人もその片腕を勤める人物であった。そしてワゴンの荷台からは、麻薬が押収された。麻薬の純度は高く、所謂上玉であり、量としては段ボール箱5箱程度だが、純度からすれば売り払う額は相当な物になる。取り調べでは、ミスターチャーリーの片腕があっさり供述を始め、それらの供述を突きつけられたミスターチャーリーも話し出した。海外組織についても聞き出せるだろう。
情報屋の情報は確かに正しかった。しかし、どういった経緯かミスターチャーリーは情報が漏れていることを知った。警部補の情報屋に情報が入ったのは取り引き当日だが、それ以前に漏洩していたのだ。用心深い彼は警察が既に漏洩した情報を入手していると考え取り引きを中止しようとするが、船は既に出発していたこと、そして日本の警察を「舐めていた」ことから、陽動作戦と偽装を考えた。まず海上で積み荷と組織の人間を別の船に載せ変えた。到着し、警察が張っていたとしても最初の船に「お宝」はない。そして、時間をずらし街中が忙しくなる頃に、港が管内に入っている警察署や隣接する警察署の管内で大がかりな事件を実際に起こし人手をそちらに向ける。手薄になった所で、しかし用心に用心を重ね、取り引き相手の船を接岸させずそこから小型船で荷を運ばせ、自分自身は自前の格好つけた高級車やスーツでなく、ありふれた商用のワゴン車と作業着を用意し荷を受け取りに行く。その様な手筈だった。女がワゴン車に違和感を感じなければ、あるいは警部補と女が港に残っていなければ、取り引きは成功したかもしれない。銀行強盗の方は、幸い死者を出すことなく解決した。
警部補と女が制服を着て警視庁にいる理由。それはこれらの功績により、警視総監賞が与えられることになったのだ。女が言った。
「あの缶コーヒー、奢ってあげるわ」
警部補は言った。
「いや、自動販売機ごと返してやる」
女は、その台詞を何かの映画で聞いた気がしたが、思い出せなかった。
To next time