はじめに
「他人は他人」という言葉を聞くことがあります。
ただ、使われ方によっては冷たく感じる人もいるかもしれません。
自分自身の経験や、日々の記録・発信を通じて感じているのは、
この言葉にはもっと深い意味があるのではないかということです。
「違う存在だから何をしてもいい」ではなく、
「違う存在だからこそ、尊重して距離感を保つ」。
それが、人間関係をスムーズにするうえで大切な姿勢だと考えています。
この考え方は、境界線(Boundary)という概念にもつながります。
日本ではあまり馴染みがないかもしれませんが、
自分と他人の責任や感情の領域を分けて考えることは、
摩擦や誤解を減らすうえでとても有効だと感じています。
🧠 境界線がないことで起こること
日本では、集団の調和を重んじる文化が強く、
「違い」が「異分子」や「空気を読まない人」として扱われることがあります。
その背景には、境界線という考え方があまり浸透していないことがあるように思います。
境界線がないと、他人の領域に踏み込みすぎたり、
逆に自分の領域を守れなかったりして、関係性が不安定になります。
個人的には、最近やたらと境界線を踏み越えてくる人が増えている印象があります。
特に自分は30代ですが、年上世代からそうした態度をとられる場面が多く、
「善意」や「経験則」の名のもとに、こちらの領域に無意識に入り込んでくるような感覚があります。
たとえば、「こうすべき」「こうしたほうがいい」といった言葉や態度が、
相手の状況や意思を考慮せずに投げかけられることがあります。
それが悪意ではないとしても、境界線がないままの助言は、
相手の選択や尊厳を軽視することにつながりかねません。
もちろん、世代的な人数の多さや育ってきた価値観の違いもあると思います。
ただ、境界線を持つという感覚が共有されていないことで、
「距離感のなさ」や「押しつけのような関わり方」が生まれてしまうのではないかと感じています。
優しさと気遣いのすれ違い
よくあるのが、「優しさ=手を出すこと」「気遣い=我慢すること」という誤解です。
たとえば、相手のために先回りして何かをしてしまう。
それが本当に必要なことならいいのですが、相手の意思や責任を奪ってしまうこともあります。
また、自分を犠牲にしてまで相手に合わせることが「気遣い」だと思ってしまうと、
長く続けるうちに疲れたり、不満がたまったりします。
境界線があると、「どこまで関わるか」「どこで引くか」の判断がしやすくなります。
それによって、関係性の摩擦も減っていきます。
運転にも現れる境界線の感覚
運転中のトラブルも、境界線の感覚があるかどうかで変わってきます。
たとえば、無理な割り込みや煽り運転は、他人の空間を侵害する行為です。
逆に、譲りすぎて流れを乱してしまうこともあります。
自分の車間距離を保ち、他人の運転に過剰に反応しない。
それだけでも、道路上のストレスや誤解はかなり減ります。
運転は、他人との距離感が目に見える場面。
だからこそ、境界線の意識があるかどうかが、結果に表れやすいのかもしれません。
大人の立場から相手に視点を与える
境界線の感覚は、自然に身につくものではありません。
だからこそ、大人がまず理解し、実践することが大切だと思います。
そのうえで重要なのは、「押しつけ」と「サポート(導き)」の違いを意識することです。
「こうすべき」「こうしたほうがいい」といった言葉は、
相手の状況や意思を考慮せずに投げかけられると、ただの押しつけになります。
それが善意であっても、境界線を越えてしまえば、相手の選択や尊厳を損なうことにつながります。
一方で、サポートとは、相手の立場やタイミングを尊重しながら、
必要なときに選択肢や視点を差し出すこと。
導くとは、相手の歩みに寄り添いながら、進む方向を照らすことだと思います。
大人が伝えるべきなのは、「こうしなさい」ではなく、
「こういう考え方もあるよ」「こういう方法もあるよ」という視点の提示。
そのうえで、相手が自分で選び、責任を持てるように支える姿勢です。
境界線を持つというのは、関係を断つことではなく、
互いの領域を尊重したうえで、健やかな関わり方を築くための土台です。
おわりに
「他人は他人」と言えることは、冷たさではなく、思いやりの形のひとつ。
違いを認めて、適度な距離を保つこと。
それが、社会でも道路でも、摩擦を減らす鍵になると思います。
Posted at 2025/09/21 08:56:08 | |
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