2024年12月31日

2024年振り返り
2024年年初は乗り鉄からスタート
阿武隈急行鉄印GET

日光駅

宇都宮ライトレール

谷田部テストコース跡訪問
新東名工事中

ヤビツ峠ステッカーGET
4月はお花見
5月は久しぶりにOASISミーティング

猫の手さんと初対面
8月は青春18きっぷで
10月はマンホールサミットイン富山へ
以前から行きたかった聖湖博物館へ

温泉むすめさんもよさげですね
年末は風邪をこじらせ体調最悪・・・
扶養家族がふえました・・・・
来年もよろしくお願いします
Posted at 2024/12/31 20:41:39 | |
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季節の話題 | 日記
2024年12月16日

奈良県ダム巡り
2023年末奈良県南部ダム巡り
初瀬ダム(はせダム)
奈良県桜井市初瀬にある一級河川・大和川の上流部に
建設された多目的ダム。
ダム型式 重力式コンクリートダム
堤高 55.0 m 堤頂長 212.5 m
利用目的 洪水調節、上水道、不特定利水
事業主体 奈良県
施工業者 奥村組、大林組、村本建設
着手年/竣工年 1969年/1987年

カード配布場所
奈良県中和土木事務所工務課施設保全・初瀬ダム管理係
8:30~17:00(土、日、祝日含む)
休日は橿原総合庁舎内の守衛室まで
※平日及び休日とも初瀬ダムでは配布しておりません
池原ダム(いけはらダム)
奈良県吉野郡下北山村に位置する、
一級河川・熊野川(新宮川)水系北山川に建設されたダム

ダム型式 アーチ式コンクリートダム
堤高 111.0 m 堤頂長 460.0 m
利用目的 発電
事業主体 電源開発 電気事業者 電源開発
発電所名(認可出力) 池原発電所 (350,000kW)
施工業者 熊谷組
着手年/竣工年 1954年/1964年
配布場所
北山川電力所 9:30~17:30
(土、日、祝祭日、年末年始(12月29日~1月3日)、5月1日は除く)
風屋ダム(かぜやダム)
奈良県吉野郡十津川村、一級河川・新宮川水系十津川
(十津川村における熊野川の呼称)に建設されたダム。

ダム型式 重力式コンクリートダム
堤高 101 m 堤頂長 329.5 m
利用目的 発電 事業主体 電源開発
電気事業者 電源開発
発電所名(認可出力) 十津川第一発電所 (75,000 kW)
施工業者 大林組
着手年/竣工年 1954年/1960年
Posted at 2024/12/31 19:28:29 | |
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ダム巡り | 趣味
2024年11月03日

富山地方鉄道市内線
正式には富山軌道線(とやまきどうせん)
富山県富山市内で富山地方鉄道が運営する軌道路線(路面電車)総称
「富山市内軌道線」とも称される
路線データ(Wikipediaより引用)
2015年(平成27年)4月時点
路線距離(営業キロ)
営業上 7.6km(電鉄富山駅・エスタ前 - 支線接続点 - 富山駅 0.2km、富山駅 - 支線接続点 - 新富町 0.4kmとして計算)
路線名称上 合計7.5km(電鉄富山駅・エスタ前 - 支線接続点 - 新富町 0.3km、支線接続点 - 富山駅 0.2kmとして計算)
本線:南富山駅前 - 電鉄富山駅・エスタ前 3.6km
支線:電鉄富山駅・エスタ前 - 丸の内 1.0km
安野屋線:丸の内 - 安野屋 0.4km
呉羽線:安野屋 - 富山大学前 1.4km
富山都心線:丸の内 - 西町 0.9km - 富山市が施設を所有
富山駅南北接続線:支線接続点 - 富山駅 0.2km - 富山市が施設を所有
結構な路線数ですね
ポートラム(0600形)富山市から借り受けて運用
8000形
富山軌道線80周年[と、台車強度の関係上、冷房装置の設置が困難なことから
非冷房で残存していたデ7000初期車(7007 - 7011)の置き換えを目的に
1993年(平成5年)に日本車輌製造で5両(8001 - 8005)が製造
左は7000型
東京都電8000形をモデルとしており、
日本車輌製造で1957年から1965年にかけて22両が製造
2023年現在10両が運用中

Posted at 2024/11/06 22:01:43 | |
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ろめん電車 | 旅行/地域
2024年11月03日

D51に会いに行こう
長野県坂城町に保存されている
D51-245
保存場所所在地
坂城町文化センター・わんぱく広場
車歴
D51245
国鉄浜松工場で 1939年9月製造7
車歴;
配属;名古屋局→浜松→金沢→敦賀→福井→上諏訪
1966年1月奈良借入→同年2月上諏訪返却→中津川→1973年7月廃車;中津川
集煙装置、
煙突部に装着しトンネル区間に限り煙突からの煙を後方へ排出させることで
面への煙の降下を抑止する
Wikipediaより引用
蒸気機関車では、燃料を燃やした後の排気ガスを煙突から上方に吹き出している。トンネルなど上部に障害物がある空間では、噴出した煙がトンネル上部に当たって跳ね返り、運転室や客室に入り込んで機関士や旅客を苦しめることがあった。特に酷い場合には機関士・機関助士が窒息して倒れて列車が暴走し、事故につながる場合もあった。
集煙装置は、こうした障害物のある場所で煙の流れを通常と変えることで、煙が障害を引き起こさないようにする装置である。通常時は上部が開放されており、集煙装置のない機関車と同じように上部へ煙が排出される。トンネルに入るときなどには、乗務員の操作で引き戸が閉じられる。これにより煙は通常と異なり、集煙装置の後方から排出されるようになる。勢いよくトンネルの上部に当たるのではなく、トンネルの上方空間に沿うように排出されることで、運転室や客室に煙が入りにくくなるという効果があった。
車体側蒸気機関車を運用する各現場の必要に応じ、
各鉄道工場で製作し取り付けられる追加装備だったようです
前面に開口部を設けた長野工場式です
ボイラー上に重油タンク付き
重油を石炭とともに燃焼させることで発熱量を増大させ、
勾配区間における機関助士の投炭作業軽減と煤煙発生量の減少を図る
重油併燃装置がついています
一緒に保存されている腕木式信号機
在りし日のD51-245
画像をお借りしたブログ
http://shinanomachi.cocolog-nifty.com/blog/2023/07/post-dd20ed.html
Posted at 2024/11/03 11:19:05 | |
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D51 | 趣味
2024年10月29日

飛行機に会いに行こう 聖博物館
所在地
麻績村立聖博物館
長野県東筑摩郡麻績村麻聖5889-1
Wikipediaより
まずは
F86Fセイバー
アメリカ合衆国のノースアメリカン社が開発し、
世界各地で運用されたジェット戦闘機。
愛称の「セイバー (Sabre)」は、サーベルの意。
日本においては、航空自衛隊の主力戦闘機としてF-86Fを435機、
F-86Fのうち18機は偵察機RF-86Fに改造された。
航空自衛隊での正式な愛称は旭光(きょっこう)。

ブルーインパルスの初代機体として採用され、
1964年東京オリンピックの開会式にて国立競技場の大空に
五色の五輪マークを描いたことでも有名
F86D セイバードッグ
F86Fの派生型
レーダーを装備し、機銃の代わりに空対空ロケット弾発射機を装備した
全天候要撃機型。派生型の扱いだが、ほぼ新規設計の機体
最初のサブタイプがD型であったことと
、機首のレーダードームが鼻のように見えるその外見から
「セイバードッグ」と呼ばれた。
航空自衛隊が初めて得た全天候戦闘機であるF-86Dは
1958年(昭和33年)から供与が始まり、
同年8月1日に第101飛行隊を編成後、1962年までに
第102、第103、第105の計4個飛行隊が編成、
計122機(内24機は部品取り用)が配備
配備された122機のほとんどが、
F-102への機材変更で不要になった
在日米軍の中古機体を供与されたもの
自衛隊内での愛称はF-86Fの「旭光」とは異なり「月光」
F104J
F-104 は、ロッキードが開発した超音速ジェット戦闘機。
愛称はスターファイター (Starfighter)
アメリカ初のマッハ2級の超音速戦闘機
三菱重工業がライセンス生産を担当し、
細い胴体に極端に小さな主翼という形状から、
空自の現場では「三菱鉛筆」の愛称ある
F-15Jの配備に伴い、1986年に全機が退役
航空自衛隊は、G型を基に日本での要撃任務用途にあわせて
火器管制装置などを改良したF-104J、
および複座の練習機F-104DJを採用した。
日本にとっては、独自で機体選考を実施した
最初のジェット戦闘機
空自では栄光という愛称
T-34 メンター(英: T-34 Mentor)
第二次世界大戦後にアメリカ合衆国の航空機メーカー
ビーチエアクラフト社が開発した単発レシプロ練習機
世界20ヶ国以上に採用された。
Mentorとは「良き助言者」「優れた指導者」の意。
ビーチクラフト社のヒット作である
民間機ボナンザをベースに開発され、
エンジンにコンチネンタル製O-470-13を搭載、
ボナンザの特徴的なV字尾翼は通常の単尾翼形式に、
4人乗りのキャビンはタンデム(縦列)複座の操縦席に変更された。
日本では独自の改良を加えた派生型を現在に至るまで数多く製造している。
1952年(昭和27年)に保安庁(現防衛省)が
初等練習機を50機導入することとなり、
富士重工業(旧中島飛行機)が生産ライセンスを取得したT-34Aを採用した。
翌1953年(昭和28年)にまず20機がアメリカ軍から貸与され、
警備隊に10機、保安隊に10機が導入された後、
富士によるライセンス生産によって30機が導入された。
さらに、1954年(昭和29年)10月から1957年(昭和32年)7月まで、
ノックダウン生産で49機、ライセンス生産で75機の計124機を生産し、
発展発足した航空自衛隊に「はつかぜ」として採用された。
そして翌1958年(昭和33年)から1959年(昭和34年)までは、
戦時賠償としてフィリピン向け36機、インドネシア向け1機を生産

Posted at 2024/10/29 23:32:24 | |
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飛行機 | 趣味