昨日とはうって変わって雨模様の日曜日、本当に昨日の新湊大橋開通記念イベントが好天の元、行われた事に感謝します。
今日は午後から供用開始という事で、もうあの道路を歩く事はできなくなります。
昭和41年富山新港の築港のため、富山地方鉄道射水線の越ノ潟-堀岡間が切断されることになってから何年の月日が経ったでしょう。

分断前の越の潟を行く重連の車両
元は富山地方鉄道がまず「新富山」(旧8号線神通川西側の頭端式ターミナル駅)から「四方」~「堀岡」~「新湊」駅(現六度寺駅)までと開通させ、あとから高岡駅横の「地鉄高岡」(今のα-1ホテル付近)~伏木港(JR伏木駅南横)まで開通し(米島口~伏木港間は昭和46年廃止)、後から「米島口」~「新湊」間が開通したという経緯を持ちます。
最後の「米島口」~「新湊」間の開通は昭和26年と富山から新湊までが戦前に開通されたことを考えると、意外と新しいことになります。
地鉄時代、、地鉄高岡駅を出発して駅前広場を突っ切るデ1050形
この新湊駅(現六渡寺駅)は隣に国鉄新湊駅と並んでおり、この能町から出ていた国鉄新湊線は、富山地方鉄道が地鉄高岡~新湊間の旅客輸送を初めた昭和26年に旅客営業を廃止しています。
この貨物線となった新湊線は国鉄時代日本で有数の黒字線と言われていました。
さて、当時富山地方鉄道射水線は、その後昭和34年高岡駅~新湊間を加越能鉄道へ譲渡し、さらに分断後越ノ潟~新湊間を加越能鉄道が譲り受けた形となり、すべてが加越能鉄道新湊線と称されるようになります。
その際「地鉄高岡」駅は高岡駅前地下街工事に伴い現在の場所へ移動し呼称も「新高岡」と改められました。

広告電車とすれ違うデ1000形
また分断される前は新高岡~富山市内軌道線の西町まで直通運転が行われていました。西町迄の直通は昭和36年に廃止されましたが、越ノ潟分断までは新高岡~新富山間は直通で走っていました。
分断直前あたりに母に頼んでこの射水線でトコトコ富山まで行った記憶があります。
加越能時代のカラーリング
この分断に伴い当時新湊市堀岡地区は、手軽に行けた新湊やちょっとよそ行きの高岡への道がただれた事は、
(当時の高岡は富山と肩を並べる商都で、当時駅前の寂しかった富山に比べると、駅前から商店街の並ぶ高岡は、買い物のしやすし都市だったと思われる)
まだモータリゼーションが目覚め始めた位の当時では、通勤通学と合わせ生活の根底を覆されるようなことだったと思われます。
その事はその後の新湊市の堀岡地区に対する気の使いようからも伺えますし、県も越ノ潟~堀岡間の渡し船を24時間無料で運航した事からも伺えます。
この24時間就航は平成15年まで行われ、その後深夜はジャンボタクシーが輸送を行っています。このタクシーもまだ歩道が開通していない関係で継続輸送されるようです。
ただその後輸送人員激減の関係で富山地方鉄道射水線は昭和55年に廃止されてしまいます。
加越能鉄道の方も同様の危機が訪れましたが平成14年第三セクター万葉線(株)に引き継がれ、今年無事10年を迎えたわけです。

硬いお話にはソフトも大切(^m^
さて、大橋開通に伴って車での移動時間は半分になるようですが、半年後に供用が開始される自転車、歩行者道の防犯対策が問題になっています。
エレベーターを使って地上40mまで登り480m渡って再びエレベーターで降りるわけですが、この間が密室状態になってしまうのです。監視カメラの充実とか言っていますが、港湾管理局職員のいない夜間や休日はどうするのでしょう。
県はフェリーを廃止したい意向ですが、当然安全が第一。
485億の建設費が生きるように妙案を期待します。

護身術も身に付けよう・・・
さて、今日は15時に伏木港万葉埠頭に旅客船「飛鳥Ⅱ」が入港しました。
国内では最大の大型外洋クルーズ客船ですが、
実は建造から22年を迎える中古船。
といえ一度は乗ってみなければ・・。
それで今日のお客様は・・・多くのバスが迎えに来ています。
「1号車は富山ト〇タの皆さま」
「2号車が〇ヨタレンタリースの・・・」
「〇号車はWVの皆さま」
な~んや、よう売れたからご褒美の慰安旅行やないか。
急に飛鳥Ⅱを見る目も変わりました。
こんなイメージで十分ですね♪
・・・ 御安航を祈る
では また c(-。-,,)c)~
※ 富山地方鉄道射水線、加越能鉄道等の写真はお借りしたものです。
Posted at 2012/09/23 19:00:02 | |
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紅ステーション | 日記