
明日は7月29日。
今から33年前のこの日。沖縄県全土は大騒ぎだった。
街道には全国から見物客が訪れ、道端にはカバーを被った標識や信号機が逆の車線にズラリと並び、走るパトカーは、沖縄なのに「北海道警察」。他の地方のパトカーも走る。
一体何が起こるのか?
それは、この日まで沖縄県全土は今とは逆の右側通行だった為だ。
かつて、沖縄県は第二次大戦後、アメリカの占領下に置かれていた。
その為、法律も行政もアメリカ式を取っていたのだった。
当初、アメリカ占領軍は「元々歴史的に沖縄は琉球王国だった」という事実に着目し、将来的に独立させるつもりだったが、1948年、中共内戦勃発による中華人民共和国の誕生と台湾との対立が始まり、ソ連と分割占領した朝鮮半島も危うくなり始めた。
しかし、ここで沖縄を独立国として解放すれば、有事に沖縄を使えなくなる。
そこで、急遽方針を変更。
「沖縄は日本固有の領土である故に、戦後賠償として占拠・統括する」
その後、米軍基地は「占領軍」という大義の元、居座り続けた。
その為、基本、琉球(沖縄)はアメリカ領土であるが、アメリカ指導で設けられた琉球政府は日本が金を出すという方針でまとまった為に、アメリカ領土である為に通貨は「米ドル」道交法はアメリカ式の右側通行でありながら公用語は日本語、街並みも日本という変わった形が暫く続いた。
だが長引くベトナム戦争で疲弊したアメリカは、沖縄は重要拠点と解っていても維持が困難になり、さらに法律の関係上、アメリカ兵の犯罪には一切手出しが出来ない状態だったのでベトナム戦争で戦い疲弊した兵士による性犯罪・強盗・交通事故等で琉球市民の怒りは爆発寸前の所にあった。
※1970年の米兵の交通事故処理が原因で暴動と化したコザ暴動が有名。
他にも軍用トラックで市民の女の子を轢き殺した際、運転手の米兵と通行人の男が女の子の遺体を中心に睨みあう写真が有名。手出し出来ずに睨むだけの市民と、平気な顔をして腕を腰に組む兵士の姿が当時の琉球(沖縄)の現状を物語っている。
ここで、アメリカと日本が取引を行った。
「沖縄の統治を日本に託す代わりにアメリカ軍基地の継続にご協力を」
1971年、佐藤首相下の中、突然決まった沖縄返還。
返還はいいとしても、問題が数多くあった。
・通貨「ドル」から「円」に切り替え
・道路交通法の日本式切り替え
・米軍基地の一部返還及び自衛隊の常駐
・琉球警察から日本警察方式へ切り替え・・・・・・・・etc
その中で一番厄介だったのが道路交通法の切り替えだった。
当時は既に琉球(沖縄)も、車の所有は当り前で占領当時のような右だろうが左だろうが問題ない状態とはかなりかけ離れており、日本車が多数で、その車も殆どが左ハンドルの「沖縄仕様」だった。
さらに道路網も右側通行に合わせた仕様で作られていた。
そこでまず、日本式に車は左側通行に戻す方針が立てられたが、沖縄県内では猛反発があり、中には「世界は殆ど右側通行。日本本土が間違ってるんだから日本本土が変更すればいい」という意見まであったが、最終的に沖縄県が日本式にすうようになった。
沖縄返還直後、「沖縄仕様」の自動車の販売は終了。その6年後、交通の切り替えをする方針となった。「6年」という根拠は、当時の自動車の平均使用期間を元にしたもので、財産権が無くなる6年後には、日本仕様の右ハンドル車が大半となるという考えだった。
そして迎えた1978年。
この当時は日本全国から応援の交通機動隊員が装備ごと派遣された。
さらに全国から標識・道路関係の業者が集結。作戦は開始された。
1978年7月29日午後10:00、全県内に配置されたパトカーや消防車のサイレンが一気に鳴り響き、それを合図に全ての交通が許可車両以外は一切遮断。
翌日午前4:18、全ての作業終了。
午前5:50、サイレンを合図に走行中の車両は全て停車。
車線を右から左に切り替え、開放を待つ。
朝午前6:00。道路は開放された。
無事作戦は終了したが、やはり、その後事故は暫く多発したそうだ。
日本とアメリカの都合に振り回され続けた沖縄。今も残念ながらその状態は続いていることを我々日本人は忘れてはならない。
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自動車の歴史 | クルマ
Posted at
2011/07/28 21:44:32