さて、これをUPしてるときにはUターンラッシュの頃なのですが、ブログのほうはまだまだ8月8日のままです(笑)
前回横須賀軍港めぐりで気力を使い果たしちゃったので時間があいちゃいました。
ということで。
軍港めぐりが終わった後、行くところといえばそう、ここですよね。

三笠公園です。
横須賀のシンボルといっていい記念艦「三笠」がある公園です。

東郷平八郎像が「三笠」の前に建っています。
横には「皇國興廃在此一戦」とかかれています。
あの有名な「皇国の興廃この一戦にあり」ですね。
この記念艦「三笠」は日露戦争で活躍した戦艦で、東郷平八郎はその雌雄を決した日本海海戦で「三笠」艦上で指揮を執った連合艦隊司令長官です。
この像は昭和42年5月27日に除幕式が行われていますよ。

記念艦「三笠」の全景です。
三笠は明治30年度計画により、英国のヴィッカース社で建造され、明治35年に竣工しました。
クルップセメンテッド鋼板採用による防禦性の強化や主砲揚弾薬機構改善による砲撃能力の向上などを加えた改敷島型として設計されています。
新造時は常備排水量15140トン、出力15000馬力で18ノットの当時世界最大最強の戦艦でした。
日露戦争後、ワシントン条約で廃棄が決定され除籍となりましたが横須賀で記念艦として保存され現在に至っています。

艦首の菊御紋章です。
戦艦大和の艦首にもありますよね。
旧日本海軍では平たく言えばこの艦首飾がある艦艇を「軍艦」と呼んでいました。
軍艦とは戦艦、巡洋艦などある程度以上の規模・格式がある艦艇を指しています。
だから当時駆逐艦などは「軍艦」ではないんですよ。

「三笠」の主砲になる30.5サンチ40口径連装砲です。
「三笠」にはこれが艦首と艦尾の計2基、合計4門の30.5サンチ砲が装備されていました。
甲板から上は復元なので当時の砲ではないダミーですが、迫力ありますね。
現在海上自衛隊で最も口径の大きな艦砲が127ミリ、陸上自衛隊では203ミリですからこの巨大さがわかります。

これが主砲弾になる30.5サンチ砲弾です。
この砲弾の重さは約400kgで射程が10kmだったそうです。
この砲弾ですが、当時日本の秘密兵器が使われていました。
それが下瀬火薬と伊集院信管です。
下瀬火薬はピクリン酸を成分にした火薬で、猛烈な爆発能力があります。
これを砲弾に充填していました。
さらにそれを炸裂させるための信管は非常に鋭敏な伊集院信管を用いていました。
通常は敵艦の装甲をぶち破ってから信管が作動する徹甲榴弾を用いますが、日本海軍はそれとは真逆で命中したと同時に炸裂する信管を使ったわけです。
もちろん装甲に対する貫通力は低いですが、激烈な発熱効果で非装甲部や乗員に対して大きな損害を期待できたからです。
結果、砲撃戦では命中弾を受けたバルチック艦隊の艦艇は次々と戦闘不能な損傷を受けたわけです。
戦艦「三笠」は1/3の割合で徹甲榴弾も用いたそうです。
徹甲榴弾も信管は伊集院信管を使っていたそうで、大多数発射した鍛鋼榴弾とは下瀬火薬の充填量が違うようです。
鍛鋼榴弾のほうが火薬量が多いので弾長も長いそうなので、写真の左側が徹甲榴弾、右側が鍛鋼榴弾ってことになるのかな?

「三笠」の艦橋です。
非常にシンプルでその後ろが海図室になっています。
それにしても背の高い後部のマストが目を引きますね。

舷側に設置された砲です。
上に見えるのが7.6サンチ40口径単装砲で、これが左舷・右舷合計20門あります。
下の大型のものは15.2サンチ40口径単装砲でこちらは計14門設置されています。
砲は復元のダミーですが、陸上自衛隊の榴弾砲に匹敵する火砲が並んでいると思うととんでもない火力だと感じますね。
舷側の装甲はクルップセメンテッド鋼で229mmあるそうです。

艦尾です。
船尾旗竿には軍艦旗が誇らしげに掲げられています。
「みかさ」のプレートの奥側は連合艦隊司令長官室、長官公室になっています。

こちらは「三笠」とは関係ないのですが、戦艦「大和」の主砲弾(九一式徹甲弾)です。
口径46サンチという戦艦の主砲としては当時最大クラスの口径を誇るもので、最大射程は42kmですから技術の発展はすごいものがあります。
この砲弾は徹甲弾で、先端についているのはキャップになります。
射撃するとこの先端のキャップが外れて敵艦の前に弾着すると魚雷のように海中を砲弾が走り舷側の装甲をぶち破ることができます。

こちらも「三笠」とは関係ないのですが、30ポンドカノン砲です。
ロシヤのフリゲートの備砲だったのですが、安政の大地震で発生した津波で沈没、引揚げられたものです。

こちらも「三笠」とは直接関係ないのですが、黒い鉄板と砲弾のようなものがあります。
この黒い板はロシヤの巡洋艦「バーヤン」(7726トン)の15サンチ砲の防盾です。
装甲の装甲厚は75mmありますが完全に貫通していますね。
「バーヤン」は旅順艦隊(ロシヤ太平洋艦隊)に属していましたが、日露戦争時は日本海軍にとってこの旅順艦隊は一番のネックでした。
大陸が主戦場のため、帝国陸軍は部隊を輸送船で送らなければなりません。
制海権を握ることが必用だったわけです。
ところが旅順にはロシヤの大軍港が置かれ、旅順艦隊が配備されていたわけです。
度々旅順艦隊は旅順港外に出て砲撃戦(旅順水上戦)を行っていますが、海戦で勝負をつけようにも旅順艦隊は旅順港に閉じこもってしまいますので勝負ができない。
帝国海軍はその旅順港ににらみを利かせるため戦艦などを張り付かせていましたが、乗員の疲労や艦艇の修理が必要ですからそれも限界があります。
そこで帝国海軍は古い貨物船を旅順港に沈めて旅順港を封鎖する旅順口閉塞作戦を行いましたが被害甚大で中止、一方帝国陸軍は港の反対側の山から砲撃戦で旅順港と旅順艦隊を壊滅させることを狙いました。
これが203高地の戦いをはじめとする旅順要塞攻略戦です。
多大な損害を出しながら旅順港を砲撃で壊滅させることに成功しましたが、その際に大破・着底したのがこの「バーヤン」です。
その後戦利艦として帝国海軍に編入され一等巡洋艦「阿蘇」として活躍しています。
砲弾のほうは日清戦争の際に清国海軍が運用していた戦艦「鎮遠」の砲弾です。
「鎮遠」は姉妹艦の「定遠」とともに最大・最強の軍艦として恐れられていました。
黄海海戦では「定遠」とともに参加して帝国海軍の旗艦「松島」に直撃弾を与え大破させています。
その後威海衛沖で座礁したところを帝国海軍が鹵獲して編入しています。
日清戦争での黄海海戦で最大の脅威だった「鎮遠」が日露戦争では黄海海戦、日本海海戦で大日本帝国海軍の艦艇として参加しているのですから運命を感じます。
さて、「三笠」の甲板にあがってみましょう。

甲板に上がるとまずこれが目に入ります。
日露戦争時に帝国海軍が使用していた機械水雷(機雷)です。
機雷は海中に投下しておき、艦艇がこれに触れると大爆発を起こすものです。
機雷戦はそれまでにも度々行われていましたが、日露戦争で初めて大々的に行われています。
機雷というと非常に地味な印象を受けますが、威力はものすごく、戦艦を1激で葬ることができました。
ロシヤ海軍が敷設した機雷により帝国海軍の戦艦「八島」「初瀬」ほかを失いましたが、帝国海軍も機雷を敷設し、ロシヤ旅順艦隊の司令長官マカロフ中将を旗艦ペトロパヴロフスクごと沈める大戦果をあげています。
マカロフは外海に出るときは必ず事前に掃海を行っていましたが、たった1日掃海を怠ったのがこの触雷・沈没があったときといわれています。

続いて目に飛び込んでくるのがこの無線室です。
日露戦争での日本海海戦といえば連合艦隊がバルチック艦隊をほとんどパーフェクトゲームで圧勝し壊滅させた大海戦ですが、その際東郷平八郎司令長官の執った敵前大回頭「東郷ターン」が有名ですが、勝利に直結したのはそれだけではありません。
戦闘では指揮・通信・統制、それに情報と兵站が欠かせないといわれますが日本海海戦ではまさに連合艦隊はそれが揃っていました。
バルチック艦隊がいつ・どこからくるのかということに対しては同盟を結んでいた英国との情報を入手して、その間に連合艦隊の艦艇の修理や乗員の休息と猛訓練、補給に励みました。
一方で離島に見張り台を設置して海底ケーブルでつなぐほか、漁船や哨戒艦艇を展開して早期警戒網を構築しています。
明治38年5月27日に五島列島西海域を哨戒していた仮装巡洋艦「信濃丸」がバルチック艦隊を発見して警報を発信、警報を受信した巡洋艦「和泉」がバルチック艦隊の後方に配置して速力や位置、陣営など詳細情報を報告しました。
そして昼過ぎに連合艦隊とバルチック艦隊は会敵し、午後2時5分、東郷平八郎連合艦隊司令長官は敵前回頭「東郷ターン」を命じます。
適切な指揮があってもそれを各艦に伝わらなくては意味がありません。
当時連合艦隊の艦艇には無線機として国産の三六式無線電信機を搭載していました。
これを一部の艦艇だけでなく、大中の艦艇に完備していたため、リアルタイムで指揮官の指揮を送受信できたわけです。
一方バルチック艦隊は大型艦には装備していましたが故障が多く統一されていなかったので性能もまちまちでまともに運用できなかったようです。
砲撃戦で混乱するバルチック艦隊と、リアルタイムで適切な指揮を受けて統制のとれた連合艦隊。
ここに日本海海戦の雌雄は決しました。
では艦内をみていきましょう。

7.6サンチ40口径単装砲(もちろんダミー)です。
敷島型戦艦の「敷島」「朝日」「初瀬」にも搭載されていました。
ここは装甲化されていないわけですから飛んでくる敵砲弾を目の当たりにしながら、当時の砲手はどんな気持ちで射撃をしたのでしょう・・・

15.2サンチ40口径単装砲の砲室です。
1発の砲弾の重さが45kgぐらいあったそうですから、装填・射撃は大変な重労働だったのでしょう。
しかも戦闘機動をしながらなので激しく揺れる砲室内で次々の砲弾を装填するわけですから。
こうやって射撃時の様子が再現されています。
また砲室内にハンモックがありますが、当時の乗組員は本当に過酷な中で任務にあたられていたのですね。

こちらは人力の操舵輪です。
操舵用の機械が壊れた場合、人力で操舵を行う必要があります。
この操舵輪をまわして対応するわけですが、巨大ですね。

こちらは艦橋上にある最上艦橋に設置された伝声管と羅針儀が設置されています。
ここに東郷連合艦隊司令長官、加藤参謀長、伊地知艦長、秋山作戦参謀が立ってバルチック艦隊を迎え撃ったんですね。
「三笠」は黄海海戦、旅順水上戦、旅順口閉塞作戦に参加、そして日本海海戦では連合艦隊の旗艦として活躍しバルチック艦隊を壊滅させました。
日本海海戦では「三笠」自身も被弾三〇余箇所、戦死8名、負傷105名という損害を受けています。

最上艦橋から甲板をみおろしたところ。
30.5サンチ40口径連装砲がみえます。
このあたりは戦後に復元したものになります。

こちらは艦橋の後ろにあたります。
海図室になっているのですが海図の保管棚と広げる机があるだけで意外とシンプルですね。

こちらは「三笠」の最上艦橋から後部を見たところ。
巨大な煙突(ファンネル)とマストがみえます。
小型の煙突に見えるものはベンチレータ(通風筒)です。
「三笠」にはベルボイル式のボイラが25基装備されていました。
ここで作られた高圧蒸気を主機に送っていたわけです。
主機はヴィッカース社製の直立三気筒三連成レシプロ蒸気機関を2基備えていました。

こちらは艦内に設置された中央展示室です。
ロシア海軍旗と艦首飾の菊御紋章があります。
このほか「三笠」の操舵輪や測距儀、パノラマ模型、秋山参謀の遺筆など大変貴重な展示がされています。

こちらは「三笠」艦尾にある司令長官公室です。
東郷連合艦隊司令長官が隷下の艦隊司令や艦長、幕僚などを招集して会議を行ったり、来客時に使用されました。
左舷・右舷には47mm単装砲が見えます。

こちらは司令長官室です。
東郷連合艦隊司令長官が執務をとっていた部屋になります。
室内には明治天皇の御真影と昭和天皇皇后両陛下が御来艦された際の写真があります。
連合艦隊司令長官ともなれば格式も求められますから部屋も非常に質感が高いですね。

こちらは士官室です。
食事や会議などが行われていました。
ところで日本海海戦が行われたのは明治38年です。
逆に言えばこの38年前は江戸時代だったんですよ。
これが意味することってものすごいことじゃないでしょうか。
幕府が倒れて政府を作って、民主主義をゼロからスタートさせるために帝国議会をひらき、憲法をつくり、産業を興して・・・・
そして国を守るために軍隊をつくって用兵術を学び、軍艦を手に入れてそれに見合うだけの運用や技術をみにつけ、そして世界最強のロシア艦隊と戦って勝ったわけです。
どんなに高性能な軍艦があってもそれを使いこなせなければ意味がありません。
素人がレーシングカーを手に入れてもレースで優勝できませんし、それ以前にルールや整備支援ができなければコースもまともに走れません。
それをわずか38年間で成し遂げたんです。
クルマを写真や本でしか見たことがない人がレースに出たいと思って勉強したり免許とったりして2~3年で自分でF1チームを作ってぶっちぎりで優勝したり、
サッカーを本でしか見たことがない人が自分たちで練習したり勉強してチームを作って、2~3年でワールドカップで2位以下に対してぶっちぎりの得失点差で優勝するより困難じゃないでしょうか?
この時代の人たちの努力は並大抵のものではないと思います。
日本の命運を分けた日本海海戦で旗艦となった「三笠」ですが、その輝かしい実績とは裏腹にその後は非常に悲惨な目にあっています。
日本海海戦から3ヵ月後の9月11日に佐世保に停泊中火薬庫で火災が発生して爆沈し殉職者339名を出す大事故にあっています。
さらに大正10年9月16日には警備行動中にアスコルド海峡で座礁しする事故にあっています。
その後対象10年11月にはワシントン会議で廃棄艦リストに載って廃艦が決定しますが横須賀に停泊していたところ大正12年9月1日に発生した関東大震災で係留岸壁と衝突して浸水し、9月20日に軍艦籍から除籍されています。
ここで廃艦・・・・になるはずでしたが大正14年に記念艦になることが決定して保存工事が行われ、大正15年11月12日に摂政宮殿下ご臨席の元で「記念艦三笠」として横須賀で発足しています。
ところが昭和20年に米軍に接収され兵装を撤去させられてます。
戦後の混乱期に装備品が持ち去られたり、甲板上に占領軍のダンスホールや水族館が置かれたり、キャバレー状態になっていたりと極度に荒廃していました。
東郷平八郎を敬愛していた米海軍のニミッツ提督がこの状況に嘆き著書の売り上げを三笠復元の寄付にしたり募金活動が行われるなどして昭和36年5月についに復元が完了しました。
日本と戦った米海軍の提督が三笠の復元に尽力するなど、めぐり合わせと運命、そして何より三笠を復元して未来に残そうとしたたくさんの方々の努力があったんですね。
以上、記念艦三笠の見学でした。