これが発売されたのは11月末なのですが、これを書いてるのは正月の1月3日。
いやあためこんじゃいました。
でも1月には2冊発売されるからなんとか早く完成させないと。。。

であごすてーに。

22号は九七式艦上攻撃機です。
零戦二一型、九九式艦爆がもう出ていますのでこれでハワイ作戦の参加機がそろったことになりますね。

モデルのほうですが、結構大型です。
零戦は幅12m、長さ9.05mに対して九七式艦攻は幅15.5m、長さ10.3mなので零戦に比べると一回り大型ですね。
非常に長い主翼が印象的です。
主翼も結構分厚いですね。

ディテールのほうはいつものであごすてぃーにクオリテイ。
もっとも値段を考えれば納得かなとおもいます。
主翼と胴体の隙間がちょ~っと目立つのは仕方ないかな。

艦攻だけあって魚雷も付属してきます。
魚雷は中心に対して機体右側にオフセットされています。
実機も機体中心に対して300mm魚雷の中心がオフセットされてますのでこれは実機どおりですね。
残念ながらスタンドに組み付けるときは魚雷を取り外さなくてはならないのが・・・

機体の下に搭載されてる魚雷に目が行ってしまいますね。
「艦上攻撃機」とはなんぞや?と思いますが、空母で運用する攻撃機のことです。
空母には艦上爆撃機というのがありますが、「爆撃」と「攻撃」どうちがうの?になるとおもいます。
艦上爆撃機は空母から発艦して急降下爆撃によって精密爆撃をする飛行機です。
一方艦上攻撃機は空母から発艦して魚雷攻撃によって敵艦艇を沈める飛行機というわけです。
雷撃機ともよばれたりします。
魚雷というとなんだか威力が弱そうなイメージがありますが大間違い。
巨大な弾体に大量の炸薬を搭載して水中で爆発すると船体の構造を破壊します。
戦艦大和を建造する際に研究されたとき、炸薬300kgの魚雷が命中したときその破孔は縦10m、長さ30mという非常に巨大なものと想定されてたそうです。
・・・そりゃ戦艦ですら沈みます。
飛行機に搭載する航空魚雷はさすがにこれよりも炸薬量は150~240kgですから、敵艦に命中すればかなりの損害を期待できるわけです。
ただし、これだけの炸薬量ですから魚雷も非常に大型で、九一式航空魚雷は実に長さ5.3m、重さは800kgもあったようです。

キャノピーが非常に大型ですね。
これは乗員が操縦手、航法手、通信手の3名だからです。
長く目立つ目印のない海域を飛ぶ艦上機だからこそですね。
このキャノピーは日本海軍の単発機としては初の密閉式キャノピーだったんです。
もちろん空気抵抗を抑えるためだったのですが、それまで開放式だったのですから視界が悪いとか当初は不評も多かったんでしょうね。
視界をなるべく遮らないよう枠は比較的少なめになっています。
魚雷を投下するときは距離3000mから浅い角度で降下して距離1000mのところで高度20m、水平飛行状態で魚雷を投下します。
もちろん今のような火器管制装置なんてありませんし、敵艦は必死に回避しようとしますので、魚雷を当てるにはまず搭載している魚雷の速度を基準に考え、目標になる敵艦が直進するか回避のため右か左に回頭するかを見極めて魚雷の進行方向調整するという非常に難しい技術を要求されます。
当然水平飛行で敵艦にまっすぐ向かっていくわけですから、対空機関砲や戦闘機の迎撃を回避することもままならない状態で投下するわけです。
では雷撃した後はすぐに急上昇や旋回を・・・・なんてことは自殺行為で、敵の弾に対する被弾面積が増えてしまいますからそのまま水平飛行で全力離脱するわけですからハンパじゃない技術と勇気が必要とされる攻撃だったんでしょうね。

ハワイ作戦では真珠湾に停泊している艦艇を雷撃したのだから簡単。
なんて思うのは大間違い。
そもそもこのハワイ作戦は技術的にも革命的だったわけです。
航空魚雷は飛行機から投下すると当然ですが海の中にジャボンと沈みます。
真珠湾は港ですからそれほど底は深くないんです。
ということは投下した魚雷が海中を進む前に海底に突き刺さってしまうわけです。
それまでの航空魚雷が高度50mで投下すると60mぐらい水中にもぐってしまいます。
そこで浅い深度でも対応できる魚雷として開発された九一式航空魚雷改2という新型魚雷を使用しました。
これなら高度20mで投下すれば10mぐらいしか水中に沈みません。
もちろん乗員の猛訓練による高い練度あってのことですが、浅深度対応魚雷なくては不可能な作戦だったわけです。

主翼を見ると・・・本当に巨大ですね。
九七式艦上攻撃機には主翼に4つ革新的な技術が織り込まれています。
まず一つ目は引き込み式の脚です。
それまでの艦上攻撃機は複葉機でした。
艦上攻撃機だけでなく戦闘機や艦上爆撃機も複葉機が常識だった時代です。
ところが米海軍ではTBDデバステイダーという全金属製の引き込み脚式の単葉機を誕生させます。
性能も今までの複葉機と比べて格段に優れてるわけでかなりのショックだったと思います。
そこでこの九七式艦には当時の技術を積み込めるだけつみこんだわけです。
九七式艦上攻撃機は全金属製の単葉機ですが脚が出ていては大きな空気抵抗になってしまいます。
そこで引き込み式の脚を採用しました。
米国の旅客機を研究して油圧を使って脚を引き込み式にする構造を取り入れたわけです。
二つ目はセミインテグラルタンクです。
九七式艦上攻撃機は3人乗りですが、当然乗員が多い分だけ胴体の容積は制限されます。
つまり胴体に燃料タンクを置くスペースがとれません。
そうなると主翼におくわけですが、主翼は引き込み式の脚の収納スペースがあるため大きく取れません。
要求仕様に航続距離がさだめられていますが、これを満足するには1000リットルの燃料タンク容積が必要です。
しかも主翼の構造で重要な桁は従来2本ですが、これがあると燃料タンクを遮ってしまうわけです。
・・・単桁構造としました。
桁の構造材は引き抜き材を使うことで重量軽減を狙いましたが日本にはこれを作る機械がないのでドイツに注文して作らせたんだとか。
さて、これでも燃料タンクの容積が足りません。
そこでどうしたかといえば、主翼内に燃料タンクを入れるのではなく、主翼そのものを燃料タンクにしたわけです。
主翼の構造の一部を燃料タンクとし、燃料タンクの外板は主翼の外板そのものになるわけです。
これで格段に燃料タンクの容積をかせぐことができたわけです。
これをセミインテグラルタンクといいます。

三つ目はフラップです。
翼後方にはフラップがみえますね。
それまでの艦上攻撃機は複葉機ですからフラップは必要なかったわけです。
単葉機ともなればそうもいかず、採用されたのがファウラー式フラップ。
フラップが一度後方にスライドし、そこから下に下がることで低速時の揚力をかせぐシステムなのですが、構造が複雑な上にこれを動かす油圧は人力で油圧ポンプを動かすので左右均等に油圧がかからないので試作2号機からは簡易なステロッド式フラップに変更となりました。
四つ目は主翼の折りたたみ式構造。
これだけ大型の主翼なのですから空母での運用は困難になります。
外翼を後方に折りたたもうにも、フラップがあるのでそれもできません。
そこで考え出されたのが主翼を上方に折りたたむ構造です。
この折りたたみ構造の作動は油圧ではなくやはり人力だったようです。
新技術をこれでもかと投入した当時の超ハイテク機が九七式艦上攻撃機だったというわけです。

では九七式艦上攻撃機の開発について簡単に。
日本が航空機を攻撃力として目をつけたのは結構早く大正5年に英国から1機だけ複葉水上機を購入しました。
ライト兄弟が空を飛んだわずか13年後、第一次世界大戦で戦闘機や爆撃機など専用の作戦機が登場したのもこの頃ですから決して日本は遅くなかったわけです。
ただ購入した雷撃機からどうやって魚雷を投下したらよいかというノウハウがわからず、どうやって飛行機を戦力として使えばいいのか手探り状態だったようです。
大正10年に英国から航空教育団が来日して航空戦力の啓蒙活動を行い、ここからが航空戦力をスタートさせていくことになります。
ここで日本海軍も艦上戦闘機、艦上爆撃機、艦上攻撃機、艦上偵察機を国産化して独自の艦隊航空戦力を構築していこうと決めるわけですが、早くも大正11年には初の空母「鳳翔」の建造を起工させています。
って、めちゃくちゃ早いやん!
まだ航空機が使い物になるのか議論されていた頃だったでしょうし、まともな航空部隊もまだ編成されていません。
それに商船など改造して作られた空母があった程度で世界のどこにも最初から空母として建造された船はありません。
日本海軍の航空戦力に対する本気度がわかります。
外国の技術者を招いて大正10年になんとか国産の一〇式艦上戦闘機、一〇式艦上偵察機、一〇式艦上雷撃機が誕生します。
能力的にはあまり芳しくなかったようで、大正13年に一三式艦上攻撃機が開発され、空母「鳳翔」に搭載されることになりました。
その後九二式艦上攻撃機、九六式艦上攻撃機と発展していきましたが、複葉機では満足できる性能はもう限界が見えてきます。
そこで開発されたのが九七式艦上攻撃機というわけです。

さて九七式艦攻の試作命令が中島と三菱に出されたのは九六式艦上攻撃機の試作機がまだ完成すらしていない昭和10年です。
要求仕様は単葉・車輪式が定められていましたからそれだけ航空戦力の近代化を急いでいたんでしょうね。
革新的な技術を織り込んだ中島はに対して手堅くまとめた三菱は脚の固定式を採用しました。
両者とも性能の甲乙はつけがたく中島は九七式一号艦上攻撃機、三菱は九七式二号艦上攻撃機として制式採用されました。
つまり九七式艦攻は全く別の2つの攻撃機が存在してたわけです。
中島の九七式一号艦上攻撃機は後にエンジンを「栄」に変更して性能が向上し九七式三号艦上攻撃機として採用されています。
この三号艦攻の登場で二号艦攻は存在意義を失い、ハワイ作戦では空母の甲板にはこの中島の九七式三号艦上攻撃機が並ぶことになりました。
以上、九七式艦攻でした。