本当は昨年末の公開と同時に見に行くつもりだったのですが、風邪をひいたり、インフルエンザが流行ったり、公私ともにバタバタしてたので今頃になってしまいました。
公開から1ヶ月以上たって観客は誰もいないかと思いきや、1/4~1/3ぐらいは埋まっていました。
そう、なんの映画かといえば
「永遠の0」
某プロパガンダ映画監督(笑)がなんかいちゃもんつけてた作品です。
ずっと見に行きたかったんですよ。
一言で言えば「すごく良かった」でしょうか。
「感動した」なんていうと若い女性が「すごく感動しました」「なけたよねー」なんていうよくある安っぽい映画(テレビ局が作ってる奴ね)のCMのようなので使いたくありませんが、中盤そしてラストに少なからず泣いてるような鼻をずっとしてる音をいくつも聞きました。
これだけでもうどのような映画なのか十分でしょう。
生きることへの執着と価値観の違い、何より生きることを選ぶことの難しさをあらためて考えさせられます。
劇中の「生き残った者がしなければいけないのは、その死を無駄にしないことだ」というセリフはまさにこの映画を集約していると思います。
戦争では無数の兵士が戦い、傷つき、そして散っていきますがその1人1人に家族がいて無数の人生があるわけです。
戦って散ることはそれらを全て背負っているわけですから主人公や戦友が特攻という必死の作戦に対して無駄死を嘆き苦しむ姿は印象的でした。
あの時代になにがあったのかを後世に伝えていくことって大切ですね。
この作品は特攻を肯定でも否定でもない形で語っています。
成功することが非常に難しい上に決死の作戦ではなく、成功することがイコール死ぬことを意味する「必死」の特攻そのものに対しては行うべきではないとしながらも、洗脳による自爆テロなどでは決して無いと現代の若者(もうひとりの主人公)の言葉で明確に否定しています。
劇中では特攻を自爆テロと平気でいっちゃうアンポンチンな若者が出てきますが、これはある意味で今の若者をあわらしているのかなと感じました。
特攻を当時の状況やひとりひとりの兵士が守ろうとしたもの・守らなくてはならないものを考えることができない世代ならああいう言葉が出てきても不思議ではありません。
若者が若者に対して呼びかけるところに意味を感じました。
物語は単なるお涙頂戴では決してなく、ところどころに複線があり、作品としても非常に面白いものになっています。
もうひとりの主人公が祖父のことを知ろうとしたら最後は自分の身近なところにそれがあったとか、主人公が妻に言った「必ず帰ってくる」がここにつながってきたか!
とか・・・など、ある意味でパズルをとくような形で物語が進んでいくのも面白いですね。
・・・・ま、まぁラスト近くのもう一人の主人公の前に零戦が現れるシーンはちょっと。。。とおもいましたけど(^^;
もうひとつイマイチだったのは主人公が僚機を犠牲にして逃げ回っているように受け取れてしまうところ。
原作を読んでないのでわかりませんが、私は巴戦ではなく一撃離脱戦をやってると受け取りました。
ただ劇中にそのシーンがないので本当に逃げ回ってるようにしか見えないんです・・・・
さて気になるシーン・注目するシーンはやはりラストに主人公が零戦とともに敵艦に突入するシーンでしょうか。
ニヤリと笑うのですがこの意味はなんなのかやはり考えてしまいます。
私は後を託せることを確信したことと無数の部下や学生がたどり着けずに散ってしまったが彼らの出来なかったことを自らやってみせたことに対する笑みなのかなと思いました。
気になる零戦などの描写ですが、正直「ここまでできたのか!」と驚きました。
最近の日本の戦争映画・アクション映画ってCGが非常に安っぽくて、どんなにドラマパートが良くてもそこで萎えてしまうものがありました。
この作品では本当に違和感無くすばらしい質感・出来だと思います。
特に空中戦では本当に実写ではないかと思って疑わないシーンたくさんありますし、空母赤城のシーンはまさに圧巻でした。
(着艦のシーンはちょっとCGぽかったですけどね)
この記事は、
映画「永遠の0」を見てについて書いています。
Posted at 2014/02/09 21:07:45 | |
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