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アスロックのブログ一覧

2017年01月03日 イイね!

であごすてぃーに九七式艦上攻撃機

これが発売されたのは11月末なのですが、これを書いてるのは正月の1月3日。
いやあためこんじゃいました。
でも1月には2冊発売されるからなんとか早く完成させないと。。。




であごすてーに。



22号は九七式艦上攻撃機です。
零戦二一型、九九式艦爆がもう出ていますのでこれでハワイ作戦の参加機がそろったことになりますね。



モデルのほうですが、結構大型です。
零戦は幅12m、長さ9.05mに対して九七式艦攻は幅15.5m、長さ10.3mなので零戦に比べると一回り大型ですね。
非常に長い主翼が印象的です。
主翼も結構分厚いですね。



ディテールのほうはいつものであごすてぃーにクオリテイ。
もっとも値段を考えれば納得かなとおもいます。
主翼と胴体の隙間がちょ~っと目立つのは仕方ないかな。



艦攻だけあって魚雷も付属してきます。
魚雷は中心に対して機体右側にオフセットされています。
実機も機体中心に対して300mm魚雷の中心がオフセットされてますのでこれは実機どおりですね。
残念ながらスタンドに組み付けるときは魚雷を取り外さなくてはならないのが・・・




機体の下に搭載されてる魚雷に目が行ってしまいますね。
「艦上攻撃機」とはなんぞや?と思いますが、空母で運用する攻撃機のことです。
空母には艦上爆撃機というのがありますが、「爆撃」と「攻撃」どうちがうの?になるとおもいます。
艦上爆撃機は空母から発艦して急降下爆撃によって精密爆撃をする飛行機です。
一方艦上攻撃機は空母から発艦して魚雷攻撃によって敵艦艇を沈める飛行機というわけです。
雷撃機ともよばれたりします。
魚雷というとなんだか威力が弱そうなイメージがありますが大間違い。
巨大な弾体に大量の炸薬を搭載して水中で爆発すると船体の構造を破壊します。
戦艦大和を建造する際に研究されたとき、炸薬300kgの魚雷が命中したときその破孔は縦10m、長さ30mという非常に巨大なものと想定されてたそうです。
・・・そりゃ戦艦ですら沈みます。
飛行機に搭載する航空魚雷はさすがにこれよりも炸薬量は150~240kgですから、敵艦に命中すればかなりの損害を期待できるわけです。
ただし、これだけの炸薬量ですから魚雷も非常に大型で、九一式航空魚雷は実に長さ5.3m、重さは800kgもあったようです。



キャノピーが非常に大型ですね。
これは乗員が操縦手、航法手、通信手の3名だからです。
長く目立つ目印のない海域を飛ぶ艦上機だからこそですね。
このキャノピーは日本海軍の単発機としては初の密閉式キャノピーだったんです。
もちろん空気抵抗を抑えるためだったのですが、それまで開放式だったのですから視界が悪いとか当初は不評も多かったんでしょうね。
視界をなるべく遮らないよう枠は比較的少なめになっています。
魚雷を投下するときは距離3000mから浅い角度で降下して距離1000mのところで高度20m、水平飛行状態で魚雷を投下します。 
もちろん今のような火器管制装置なんてありませんし、敵艦は必死に回避しようとしますので、魚雷を当てるにはまず搭載している魚雷の速度を基準に考え、目標になる敵艦が直進するか回避のため右か左に回頭するかを見極めて魚雷の進行方向調整するという非常に難しい技術を要求されます。
当然水平飛行で敵艦にまっすぐ向かっていくわけですから、対空機関砲や戦闘機の迎撃を回避することもままならない状態で投下するわけです。
では雷撃した後はすぐに急上昇や旋回を・・・・なんてことは自殺行為で、敵の弾に対する被弾面積が増えてしまいますからそのまま水平飛行で全力離脱するわけですからハンパじゃない技術と勇気が必要とされる攻撃だったんでしょうね。



ハワイ作戦では真珠湾に停泊している艦艇を雷撃したのだから簡単。
なんて思うのは大間違い。
そもそもこのハワイ作戦は技術的にも革命的だったわけです。
航空魚雷は飛行機から投下すると当然ですが海の中にジャボンと沈みます。
真珠湾は港ですからそれほど底は深くないんです。
ということは投下した魚雷が海中を進む前に海底に突き刺さってしまうわけです。
それまでの航空魚雷が高度50mで投下すると60mぐらい水中にもぐってしまいます。
そこで浅い深度でも対応できる魚雷として開発された九一式航空魚雷改2という新型魚雷を使用しました。
これなら高度20mで投下すれば10mぐらいしか水中に沈みません。
もちろん乗員の猛訓練による高い練度あってのことですが、浅深度対応魚雷なくては不可能な作戦だったわけです。



主翼を見ると・・・本当に巨大ですね。
九七式艦上攻撃機には主翼に4つ革新的な技術が織り込まれています。

まず一つ目は引き込み式の脚です。
それまでの艦上攻撃機は複葉機でした。
艦上攻撃機だけでなく戦闘機や艦上爆撃機も複葉機が常識だった時代です。
ところが米海軍ではTBDデバステイダーという全金属製の引き込み脚式の単葉機を誕生させます。
性能も今までの複葉機と比べて格段に優れてるわけでかなりのショックだったと思います。
そこでこの九七式艦には当時の技術を積み込めるだけつみこんだわけです。
九七式艦上攻撃機は全金属製の単葉機ですが脚が出ていては大きな空気抵抗になってしまいます。
そこで引き込み式の脚を採用しました。
米国の旅客機を研究して油圧を使って脚を引き込み式にする構造を取り入れたわけです。

二つ目はセミインテグラルタンクです。
九七式艦上攻撃機は3人乗りですが、当然乗員が多い分だけ胴体の容積は制限されます。
つまり胴体に燃料タンクを置くスペースがとれません。
そうなると主翼におくわけですが、主翼は引き込み式の脚の収納スペースがあるため大きく取れません。
要求仕様に航続距離がさだめられていますが、これを満足するには1000リットルの燃料タンク容積が必要です。
しかも主翼の構造で重要な桁は従来2本ですが、これがあると燃料タンクを遮ってしまうわけです。
・・・単桁構造としました。
桁の構造材は引き抜き材を使うことで重量軽減を狙いましたが日本にはこれを作る機械がないのでドイツに注文して作らせたんだとか。
さて、これでも燃料タンクの容積が足りません。
そこでどうしたかといえば、主翼内に燃料タンクを入れるのではなく、主翼そのものを燃料タンクにしたわけです。
主翼の構造の一部を燃料タンクとし、燃料タンクの外板は主翼の外板そのものになるわけです。
これで格段に燃料タンクの容積をかせぐことができたわけです。
これをセミインテグラルタンクといいます。



三つ目はフラップです。
翼後方にはフラップがみえますね。
それまでの艦上攻撃機は複葉機ですからフラップは必要なかったわけです。
単葉機ともなればそうもいかず、採用されたのがファウラー式フラップ。
フラップが一度後方にスライドし、そこから下に下がることで低速時の揚力をかせぐシステムなのですが、構造が複雑な上にこれを動かす油圧は人力で油圧ポンプを動かすので左右均等に油圧がかからないので試作2号機からは簡易なステロッド式フラップに変更となりました。

四つ目は主翼の折りたたみ式構造。
これだけ大型の主翼なのですから空母での運用は困難になります。
外翼を後方に折りたたもうにも、フラップがあるのでそれもできません。
そこで考え出されたのが主翼を上方に折りたたむ構造です。
この折りたたみ構造の作動は油圧ではなくやはり人力だったようです。
新技術をこれでもかと投入した当時の超ハイテク機が九七式艦上攻撃機だったというわけです。




では九七式艦上攻撃機の開発について簡単に。
日本が航空機を攻撃力として目をつけたのは結構早く大正5年に英国から1機だけ複葉水上機を購入しました。
ライト兄弟が空を飛んだわずか13年後、第一次世界大戦で戦闘機や爆撃機など専用の作戦機が登場したのもこの頃ですから決して日本は遅くなかったわけです。
ただ購入した雷撃機からどうやって魚雷を投下したらよいかというノウハウがわからず、どうやって飛行機を戦力として使えばいいのか手探り状態だったようです。
大正10年に英国から航空教育団が来日して航空戦力の啓蒙活動を行い、ここからが航空戦力をスタートさせていくことになります。
ここで日本海軍も艦上戦闘機、艦上爆撃機、艦上攻撃機、艦上偵察機を国産化して独自の艦隊航空戦力を構築していこうと決めるわけですが、早くも大正11年には初の空母「鳳翔」の建造を起工させています。
って、めちゃくちゃ早いやん!
まだ航空機が使い物になるのか議論されていた頃だったでしょうし、まともな航空部隊もまだ編成されていません。
それに商船など改造して作られた空母があった程度で世界のどこにも最初から空母として建造された船はありません。
日本海軍の航空戦力に対する本気度がわかります。
外国の技術者を招いて大正10年になんとか国産の一〇式艦上戦闘機、一〇式艦上偵察機、一〇式艦上雷撃機が誕生します。
能力的にはあまり芳しくなかったようで、大正13年に一三式艦上攻撃機が開発され、空母「鳳翔」に搭載されることになりました。
その後九二式艦上攻撃機、九六式艦上攻撃機と発展していきましたが、複葉機では満足できる性能はもう限界が見えてきます。
そこで開発されたのが九七式艦上攻撃機というわけです。




さて九七式艦攻の試作命令が中島と三菱に出されたのは九六式艦上攻撃機の試作機がまだ完成すらしていない昭和10年です。
要求仕様は単葉・車輪式が定められていましたからそれだけ航空戦力の近代化を急いでいたんでしょうね。
革新的な技術を織り込んだ中島はに対して手堅くまとめた三菱は脚の固定式を採用しました。
両者とも性能の甲乙はつけがたく中島は九七式一号艦上攻撃機、三菱は九七式二号艦上攻撃機として制式採用されました。
つまり九七式艦攻は全く別の2つの攻撃機が存在してたわけです。
中島の九七式一号艦上攻撃機は後にエンジンを「栄」に変更して性能が向上し九七式三号艦上攻撃機として採用されています。
この三号艦攻の登場で二号艦攻は存在意義を失い、ハワイ作戦では空母の甲板にはこの中島の九七式三号艦上攻撃機が並ぶことになりました。

以上、九七式艦攻でした。
Posted at 2017/01/03 18:07:27 | コメント(3) | トラックバック(0) | ミリタリー雑誌 | 日記
2016年12月05日 イイね!

であごすてーに彗星

今回はスケジュールの関係で2連チャンでいきますよ。


であごすてぃーに。



20号は帝国海軍の艦上爆撃機彗星です。
パッケージの表紙に「空技廠」とありますが、これは彗星を開発した組織です。
海軍の隷下に航空機の研究・調査・開発をおこなう組織が海軍航空廠で、その後海軍航空技術廠と改称されています。
ここは海軍航空関係のエリート技術者が集められた組織というわけです。



モデルのほうは2000円という値段で考えれば妥当とはいえ、ディテールはどうしても甘いですね。
でもプロポーションは悪くありません。



どこか日本機らしくない形にも感じます。
上から見るとイタリアのマッキMC.202に雰囲気が似てるかもしれませんね。
MC.202と彗星は実はエンジンが同じDB601液冷エンジン(正確に言えばDB601をライセンス生産された熱田エンジンですが)を採用しています。
機首下についているのはラジエターというわけです。
彗星は九九式艦爆と同じ艦上爆撃機なのですが、どちらかといえば戦闘機に近い形といえるかもしれません。



こうして後ろから見ると斬新なデザインだと感じます。
比較的小柄な垂直尾翼、プロペラから遠く離れた場所にある操縦席(要するに液冷エンジンが長い)、零戦と比べると細長い(零戦:全長9.05m、全幅12mに対して彗星:全長10.22m、全幅11.5m)サイズですが、自重は零戦1754kgに対して彗星は2550kgと結構重かったりします。
それでいて速度は零戦の533km/hより速い580km/hだったりします。



彗星が試作発注されたのは九九式艦上爆撃機が制式化される1年前の昭和13年末です。
海軍が海軍内の開発組織の航空技術廠に命じたわけですが、このときの要求がすごい。
最大速度が後のゼロ戦(当時はまだ開発中だった)よりも速い518km/h、巡航速度426km/h、航続距離は過荷重状態で2200kmというムチャクチャなものでした。
ちなみに九九式艦上爆撃機の要求仕様は250kg爆弾を搭載して最大速度370km/h以上、この状態で航続距離1480km/hだったわけですからまさしく「異次元」のものだったと思います。
何故こんなムチャクチャな要求仕様だったかといえば、可能な限りの新技術を投入して究極の艦上爆撃機を設計することを目標としたわけです。
平たく言えば実験機ですね。
なので実用性や生産、整備性は二の次三の次だったわけです。
将来の航空機を開発する上で必要なことだったんでしょうね。
さらに恐るべきことに降着装置や抵抗板、爆弾槽の扉の開閉を油圧ではなく電動モータを使っていたんです。
今では電動で動かすのは一般的になってきましたがこの時期に採用したのは画期的だったわけです。
もちろん当時日本が苦手だった油圧の油漏れ対策と言う意味もあったのでしょうけど、とにかく投入できる技術は徹底的に投入下のが彗星というわけです。



後ろから見ると思ったよりも主翼が小さく、胴体はぎゅっと絞っているのが判ります。
海軍は敵機動部隊の艦上機の行動圏外から出撃して、高速を活かして短時間で接近して爆撃を行い、高速で敵の戦闘機を振り切って帰還するという構想だったようです。
当然速度は非常に重視されます。
速度性能に有利な液冷エンジンを採用して胴体をしぼって小柄な主翼にすることで抵抗を減らしたわけです。
もちろん急降下爆撃機なので引き起こすときにどれだけ揚力をかせげるか、スピードを落とせるかが非常に重要になってきます。
主翼を小さくすると翼面荷重が大きくなってしまうわけですが、そこはフラップをファウラープラップにすることで対処しています。
ファウラーフラップは翼の下面が下がることで翼面積を一時的に広げて揚力を得るものです。
急降下爆撃時にはファウラーフラップの下にある抵抗板が展開してスピードブレーキにしていたようです。



さて、このハイテクの結集体といっていい十三試艦爆(後の彗星)は昭和15年11月に初飛行に成功しました。
初号機をテストした結果、速度は要求518km/hが552km/h、航続力は2200kmが3890kmと大幅に目標を超えてクリアして海軍側を驚かせたようです。
将来の航空技術のために輝かしい研究成果を残して終わる・・・はずでした。
ところが日米関係が悪化し、太平洋戦争に突入することで実験機の性格が強かった十三試艦爆は量産化することになってしまったわけです。
性能を第一に考えて生産性や実用性は二の次三の次の実験機だったのに量産になるということはどうなるか・・・・
当然複雑な機体システムや陸軍のキ61(飛燕ね)で多発した液冷エンジンの不調や整備の困難さ、新技術の電動モータの多用は故障や量産化の妨げになるわけです。



初号機の初飛行が昭和15年11月、部隊配備が本格化したのは昭和18年後半ですからどれだけ量産化に苦労したかがわかります。
部隊配備された機体もやはり稼働率に悩まされることが多かったようです。

ところで彗星ですが、一番最初に量産化したのは艦上爆撃機ではなく偵察型の二式艦上偵察機だったようです。
彗星とはカメラの有無の違いだったようですね。
彗星は液冷エンジン「熱田」を採用していましたが不調だったこともあって空冷エンジンを搭載した彗星三三型も生産されました。



Posted at 2016/12/05 23:23:20 | コメント(1) | トラックバック(0) | ミリタリー雑誌 | 日記
2016年11月25日 イイね!

であごすてぃーに零戦一一型

浜松基地航空祭や岐阜基地航空祭、プラモ組み立てだけじゃなくて周囲でいろいろばたばたしていたこともあって購入から1ヶ月以上もたってしまいました・・・・


であごすてぃーに。



19号は零式艦上戦闘機一一型です。
あれ?零戦って以前五二型と二一型を出しましたよね?
もしかして各型出すつもりなのかな?
となると次は三二型と六三型を出すつもりなのか・・?
ぶっちゃけそれほど精密って訳じゃないモデルなので違いがわかりづらいしうれしさも薄そうなんですが・・・




零戦一一型とは平たく言えば「初めてのゼロ戦」です。
試作機を作ってその後量産機にうつるわけですが、3号機以降の初期タイプが零戦一一型ってわけです。
空母に搭載する前に数十機ほど陸上運用型を作ったわけです。
モデルのほうですが、先に発売された二一型とほとんどかわりません。
それもそのはず、一一型に着艦フックや主翼の折りたたみ機構をつけたのが零戦二一型であって、パッと見で見分けがつくような違いはないわけです。
ただこの一一型を運用していた海軍第12航空隊の塗装が非常に個性的だったこともあってモデルにもその塗装がされています。



零戦の初期は「飴色」と言われる色で塗られていたとされます。
この「飴色」がどんな色なのかは諸説あるようなので触れませんが、第12航空隊の機体は胴体前部を飴色に、後部を明灰色に塗られていたようです。
この第19号の表紙や3Dの絵を見ると茶色がかかった濃い灰色になっています。
・・・モデルはどうみても前部が明灰色、後部は暗青灰色やんけ!
なんじゃいこの説得力のなさは!
ちなみに当時の白黒写真では色の差があまりなく、私では見分けがつきません・・・
垂直尾翼になにやら小さな赤い模様が描かれているのは撃墜マークです。
これは一人のパイロットの撃墜戦果ではなく、複数のパイロットによるこの機体の戦果を意味します。
この3-112号機ですが、戦功記念機として後に内地に送られ、江田島の海軍学校に精神教材として展示されたそうです。



さてモデルの出来ですが、二一型のほうでも触れましたが、明灰色の機体に黒い線(いわゆる墨入れ)はめちゃくちゃ目立つというか違和感がすごいですね・・・
全体的なモデリングは二一型と同じです。
ちなみにキャノピー後部にアンテナがあるんですが、またもやつけわすれて撮影してしまいましたorz



では実機のほうの解説をちょこっと。
ゼロ戦の開発については二一型のところで簡単に書きましたので省略しますが、ゼロ戦は前任の九六式艦上戦闘機をはるかにしのぐ速度と航続距離をもちながら運動性は九六式艦戦並という海軍のムチャ振りの要求で生まれた傑作機なわけですが、この要求仕様がだされたれたのが昭和12年。
この頃の米海軍では複葉機のF3Fが主力機でしたし、英海軍では全金属製単葉機の開発さえされてなかったとのことですから、どれだけ先進的というか革新的というか、チートすぎるものなのかがわかります。
ゼロ戦の試作機は昭和12年発注ということで「一二試艦上戦闘機」と呼ばれ、昭和14年4月1日に初号機が初飛行に成功しました。
飛行試験では要求性能をなんとかクリアし、その後さまざまな問題をつぶしこんでいる最中の昭和15年の初めには部隊を編成して中国大陸に展開するよう命じられることになります。



この頃は日支事変(日中戦争ね)で国民党軍が内陸部に後退して交戦していました。
これに対して帝国海軍としては航空攻撃のために陸上攻撃機や爆撃機を出撃させていますが、国民党軍は内陸深い場所を拠点としてるので護衛の戦闘機の航続距離が足りません。
戦闘機の護衛がない陸上攻撃機や爆撃機は大きな損害を受けてしまっています。
そこで艦上戦闘機として採用されるにはまだまだ時間がかかるものの、長大な航続距離をもつ一二試艦戦にお声がかかったわけです。
6月に一二試艦戦を1個分隊編成して漢口の基地に進出せよという命令が下され、7月半ばに到着、第12航空隊に編入されました。
新型機(それどころか量産さえされてない試作戦闘機・・・)ということで故障などのトラブル続出だったそうですが、その間も乗員の猛訓練を続け昭和15年7月24日に「零式一号艦上戦闘機一型」の名称が与えられ、ここにゼロ戦が正式に生まれたわけです。
8月に初出撃を行い、9月におこなわれた重慶空中戦で中国軍機を完全勝利する華々しいデビューを飾ったわけです。



零式一号艦上戦闘機一型は中国大陸に進出する時点ではまだ艦上戦闘機としてのテストすらされていませんでした(だって初飛行まもない試作機だもん・・・)。
そこで「局地戦闘機(迎撃戦闘機のことね)」として展開したわけですが・・・
この一二試艦戦(後の零式一号艦上戦闘機)は一部の機体を除いて空母運用に必要な着艦フックがありません。
そう、正式採用されたとはいえ、初期の零式一号一型艦上戦闘は陸上機だったわけです。
一二試艦上戦闘機を含めて3号機から66号機までを零式一号艦上戦闘機一型と呼んでいます。
さて、ゼロ戦は艦上戦闘機ですから空母に積んでナンボの戦闘機です。
要求仕様どおりに設計したものの、実際に空母に載せてみるとエレベータの寸法ギリギリだったわけです。
そこで67号機以降は翼端を50センチほど上に折りたためるようにしました。
これが零式一号艦上戦闘機二型というわけです。
昭和17年4月の海軍機の呼称方法改定で零式一号艦上戦闘機一型を「零式艦上戦闘機一一型」、零式一号艦上戦闘機二型を「零式艦上戦闘機二一型」と変更されています。



さて、ゼロ戦と同時期に陸軍の戦闘機も誕生しました。
キ43「隼」という軽戦闘機ですが、機体の寸法が近く同じエンジンを搭載して、両方とも長大な航続距離をもち、非常に優れた格闘戦能力ですが、ひとつ非常に大きな違いがあります。
それは火力です。
ゼロ戦は20ミリ機関銃と7.7ミリ機関銃をそれぞれ2門装備するようになっていましたが、キ43は7.7ミリ機銃が2門のみ(後期は12.7ミリ機銃2門に変更)でした。
ゼロ戦が新装備の20ミリ機関銃を搭載することになったと知って、海軍内でも相当の反対があったそうです。
特に一二試艦戦が配備された第12航空隊では20ミリ機関銃不要との意見具申すらされたそうです。
陸軍は九七式戦闘機を、海軍は九六式艦上戦闘機を運用していましたが、武装はともに7.7ミリ機銃のみです。
この機銃で成果をあげているのに、新装備の大口径機銃なんて使い物になるかと非常に疑問視されていたようですね。
確かに実際に使っている側とすれば、十分実績のあるものに比べて、得体の知れない実績もない新装備には抵抗感はあるんだと思います。
結局ゼロ戦には20ミリ機銃を最初から装備するように設計され、キ43は7.7ミリ機銃のみの搭載で設計されたわけですが、優れた空中戦能力をもっていたとはいえ後にキ43が火力不足で泣かされたこと、大口径の機銃に換装したくても小口径機銃が前提でつくられた主翼には構造上搭載することができなかったようです。
要求仕様がどれだけ重要なのか、将来の見通しがあるか考えさせられますね。


以上、零式艦上戦闘機一一型でした。
Posted at 2016/11/25 00:31:00 | コメント(0) | トラックバック(0) | ミリタリー雑誌 | 日記
2016年10月22日 イイね!

であごすてーに烈風

いろんな事情でブログのほう、かなり滞ってます。
昨年の明野なんて途中まで作っておいてそのまま放置してたら今年の航空祭が既に終わってしまいましたし・・・
いろんな事情で気分が乗らないというのもありますが、たまには1発でっかいアップしたいなぁ・・・
さて

であごすてぃーに。
こちらも忘れてはいませんよ。



であごすてぃーにWW2傑作機コレクション第17号は「烈風」。
そのうち来るとは思いましたが早くもきましたか。


第二次世界大戦では各国でいろんな戦闘機が活躍し、中盤からはその後継となる高性能な新型機が登場しています。
例えば陸軍では九七式戦闘機の後継は隼
海軍は九六式艦戦の後継は零戦
米海軍ならF4Fワイルドキャットの後継はF6Fヘルキャット
はっきりとした位置づけではありませんが、隼の後に疾風が登場していますし、航空技術の進化が著しかったこの時期は非常に短いサイクルで新型機が登場しています。
ではゼロ戦の後継は?
実は後継はないんです。
正確に言えば「間に合わなかった」が正解でしょうか。
空母に搭載して機動部隊の一員として護衛や制空権確保などに使われるゼロ戦の後継になる艦上戦闘機は配備がされる前に終戦となってしまいました。
その間に合わなかった新型の艦上戦闘機がこの烈風です。
零戦と比べてみました。
かなりの大型なのが判ると思います。



モデルのほうですが、値段相応・・・かな。
特にカウルの処理をもう少し丁寧にやってほしかったですね。
とはいえ烈風のモデルはあまりないのでこれは貴重といえるかも。
今回のモデルは3号機にあたります。
実機の写真と見比べると日の丸の白がちょっと細すぎる感じがします。




前から見ると主翼がわずかに逆ガルになっているのがわかります。
内翼が水平で外翼が上反角がつけられているんですね。
パッと見て気が付くのはこの烈風、主翼がとにかく巨大だってことです。
もちろんこれには理由があります。
高い機動性をもつゼロ戦の後継になる新艦上戦闘機にも同等の高い機動性を海軍は求めたわけです。
零戦は軽量の機体に高い機動性をもたせるために主翼を大きくして翼面荷重を小さくしました。
飛行機は主翼で揚力を得ることで飛ぶことが出来ますが、主翼が小さい(面積が小さい)と、その小さい面積で得られた揚力で機体を支えなくてはならなくなります。
逆に大きい主翼(面積が大きい)ならばその大きな面積で得られた揚力で機体を支えることになります。
面積が大きければ大きいほど揚力を大きく得られるわけです(実際には翼の形でずいぶん違うわけですが、相似形の主翼ならば面積が大きいほど有利・・・って意味です)
一方で零戦以上の速度として640km/hを要求されたわけです。
そうなると大型の大パワーエンジンが必要ですが、当然大型で重いので機体も重くなります。
主翼が大きいと抵抗も大きいので速度も不利になってきます。
・・・あいかわらず無理いうなや海軍さん!



キャノピーの大きさを見るとこの機体がかなりの大型機だというのがわかります。
大型の3人乗りの艦上攻撃機並みの大きさです。
サイズは全幅14メートル、全長11メートル、自重3266kg。
ちなみにゼロ戦(二一型)が全幅12メートル、全長9.05メートル、自重1754kgなので、ふたまわりは大きいことになります。
翼面積は30.8平方メートルなのですが、これは畳18.6畳分にあたります。
機体が大きいのはゼロ戦以上の速度性能を求めたためです。
今までゼロ戦で使っていた栄エンジンではなく馬力が2倍近い2000馬力級のエンジンを搭載したためです。
機体のほうは確かに大型化しましたが、主翼の形も機体の形もゼロ戦に似てると思いません?



この角度から見ると大型化したゼロ戦って感じがしますね。
それもそのはず、エンジンを大型化したことや主翼の外翼に上反角をつけたところを除くとゼロ戦をほぼ踏襲したものになっているわけです。
設計を請け負ったのはゼロ戦と同じく三菱で設計主務者はゼロ戦の設計主務をした堀越技師ですからまさにゼロ戦の発展型といっていいかと思います。



烈風ですが、十七試艦上戦闘機という名前で海軍が試作発注したのは昭和17年6月ですから、ミッドウエー開戦の頃です。
ゼロ戦が制式化されて2年もたって初めて開発スタートですからこれはずいぶん遅いことになります。
いくらゼロ戦が高性能だったとはいえ、戦闘機なんて1日2日でできるものではなく、設計に何年もかかるのですからこれは致命的だといえると思います。
この頃は戦闘機のエンジンは大パワー時代になっていますから、当然2000馬力級のエンジンを搭載することが決まっていました。
海軍の要求はゼロ戦並みの運動性を持つこと。
・・・でたよ・・・・
高い運動性をもたせるには翼面荷重を低くするようにして主翼を広くしなければなりません。
こうなると抵抗が大きくなるので速度性能には不利になります。
エンジンが大型ならさらにそれを補うために主翼を広くして、そうなると速度性能が低下するので・・・と自分で自分の首を絞めるようなことになりかねないわけです。
ゼロ戦は高い運動性能をもっていたので格闘戦ではバツグンの能力がありました。
ベテラン搭乗員が格闘戦をすれは敵なしの状態だったでしょう。
これに対して当然敵は格闘戦にはいらないような戦い方をするわけです。
高速で接近して射撃して、高速で離脱する。
たとえ格闘戦になってもゼロ戦が追いつけない速度で逃げたり上昇能力で振り切るような戦闘機を作りそういう戦い方になってくわけです。
しかも連日の激しい戦闘でベテラン搭乗員も次々散華されてしまっていたのですから、想定していた空中戦になっていかなかったんでしょうね。



さて烈風の1号機は昭和19年4月になんとか完成しました。
ところが飛ばせてみると速度が出ない、上昇力が低い(後継になるはずのゼロ戦より低い)というものでした。
烈風に搭載されたエンジンは「誉」というエンジンを海軍は指定してきました。
これは紫電改などに搭載されていたもので、確かにパワーはありますが、整備性などいろいろあって狙った出力を出すのが難しかったわけです。
この誉エンジンが足を引っ張った結果だったわけですが、このテストをうけて海軍は落胆して烈風を見放し、工場は紫電改の生産に転換しろというなんともあんまりな命令をしました。
これに対して三菱は当初自分たちが考えていた自社製のエンジンを搭載してもう一度テストをすべきだと主張したわけですが、海軍は聞き耳持たなかったようです。
ムチャな要求とムチャな仕様押し付けてあんまりな話だとばい!
三菱もだまってはおらず、海軍とは関係ナシに自分で自社製のエンジンを搭載してテストしてみたら要求性能に近い性能がでました。
これをうけて海軍は手のひら返しで採用、烈風を生産せよという命令をだしたわけです。
ずいぶん身勝手というかなんというか・・・


烈風が制式採用決定になったのは昭和20年6月。
既に運用できる空母はなく空母での艦上機運用も放棄していました。
「艦上戦闘機」ではなく烈風は防空戦闘機を示す「局地戦闘機」としてデビューしたものの、結局量産機が完成する前に終戦を迎えることになります。

Posted at 2016/10/22 22:48:23 | コメント(3) | トラックバック(0) | ミリタリー雑誌 | 日記
2016年09月25日 イイね!

であごすてぃーに九九式艦爆

これを手に入れたのは結構前なのですが、なかなかアップできなかったので今頃ということで・・・



であごすてぃーに。



WW2傑作機コレクション14号は九九式艦爆。
当時の技術を注ぎ込んだ高性能爆撃機ですね。
零戦、九七式艦攻とともにハワイ作戦に参加したWW2前半の主力機です。



モデルのほうですが、値段で考えれば悪くは無いですが、前回の零戦二一型でも指摘したように明るい機体色に黒い線はやたら目立つので押さえてほしかったというのが正直なところです。
アンテナやピトー管、照準器などはもう少しがんばってほしいとこかな。



さてこのモデル九九式艦上爆撃機ですが、名前の通り紀元2599年(昭和14年)に制式化された空母で運用する爆撃機です。
「爆撃機」というとB-52とか富岳とか、巨大な機体に複数のエンジンを搭載した物をイメージしますね。
でも空母で使うのであればそんなに巨大な爆撃機は無理です。
空母から発艦して地上の敵施設や敵の艦船を爆弾で攻撃するのが艦上爆撃機です。
爆弾で攻撃とはいっても無数の爆弾をばらまくわけではありません。
空母に搭載するのですから機体のサイズはそれほど大きくできませんし、搭載する爆弾もそれほどつめません。
それならば少数の爆弾であっても確実に敵の艦船に命中させられる命中精度をもつ機体がほしいですよね。
それが艦上爆撃機です。
とはいえ、この頃の爆弾は精密誘導兵器ではない無誘導の爆弾です。
では命中精度を高くするにはどうするか?
高い命中精度が出るような爆弾の投下方法にすればいいわけです。

話はずれますが、終戦前に日本は米陸軍のB-29戦略爆撃機の無差別爆撃を受けました。
高空から爆弾を落としても目標に命中なんて期待できません。
そこで数百機という大編隊で大量の爆弾をそこらじゅうにばらまいたわけです。
目標は特定の施設ではなく民間人の生活圏である住宅街や都市部。
木造住宅がほとんどだったので大火災をおこすよう狙った焼夷弾をつかいました。
例え爆弾が命中せず焼け残っても発生した大火災でまとめて住宅街や大都市を焼き払うことを狙ったわけです。
一方で艦上爆撃機は少ない爆弾を一発必中で敵の艦船に命中させることを求められます。
「爆撃機」と一言で言ってもぜんぜん違うわけです。



一発必中の高い命中精度を求める爆弾の投下方法、それは急降下爆撃です。
よく第二次世界大戦の記録映像でプロペラ機が「ひゅううおんおんおんおん」というけたたましい風きり音とともに急降下しながら爆弾を投下、直後爆発!というのを見たことがあると思います。
これが急降下爆撃です。
飛行機が水平に飛んで爆弾を落とすと命中までに爆弾が水平方向にかなり移動するので地面に弾着するまでには大きくずれてしまいます。
ましてや高い高度がら落とせばわずかなズレも弾着の時点ではそのズレは非常に大きくなってしまいます。
一方で急降下爆撃は機体が目標に向かって急な角度で急降下しながら爆弾を投下するので、爆弾は機体の進行方向(目標)に向かって飛んでいきます。(実際には放物線を描くのでまっすぐ飛んでいくわけではないですが)
なので誤差も抑えられ水平爆撃とは比べ物にならない高い命中精度を得ることが出来ます。




急降下爆撃という新しい技術を生み出したのは米海軍。
最初の専用機が開発されたのは昭和3年ですが大日本帝国海軍が急降下爆撃に着目して米国のカーチス社に技師を視察に派遣したり資料をあつめたのが昭和5年と結構早い時期だったのがわかります。
早くも昭和6年には最初の試作機の六試特殊爆撃機の開発を開始しています。
その後七試特爆、八試特爆と試作急降下爆撃機の開発は続きましたが技術的に難しいものがあって難航したといいます。
昭和9年にドイツのハインケルHe66爆撃機をベースに開発された九四式艦上爆撃機が初の実用艦爆として誕生しました。
九四式艦爆は日中戦争で敵陣地や橋などを精密爆撃で実績をあげています。
九四式艦爆のエンジンを変更するなどした性能向上型の九六式艦爆を開発しました。
この九六式艦爆の試作が進められている昭和11年に次期新型艦爆を開発を命じたわけですがこれが後の九九式艦爆です。
初めて米国の急降下爆撃技術を知って米国に派遣したのが昭和5年、九九式艦爆の開発スタートが昭和11年。
この間わずかに6年とムチャクチャ慌しくすさまじいスピードで開発が進められていたんですね。



海軍が示した後の九九式艦爆となる十一試艦爆の仕様ですが
250キロ爆弾を搭載して最大速度370km/h以上、この状態での航続距離1480km以上、爆弾を投下した後は戦闘機に近い空中戦能力をもつこと
・・・ムチャですがな。
九六式艦爆が複葉機でしたが、新型艦爆が性能を満足するには全金属製の単葉機にならざるを得ません。
十一試艦爆は三菱、愛知、中島の3社に指示が出されましたが、このうち中島は進歩的な設計を、愛知は手堅い設計となりました。
面白いものがあります。
象徴的なところは主脚です。
この頃の単葉機の主脚は空気抵抗になるので格納するのが一般的となってきました。
一足速くデビューした九七式艦攻も主脚を格納式としています。
ところが愛知はあえて固定式(格納できない)を選んだわけです。
格納式にすると構造上、主翼下面に格納用の開口部が必要です。
当然強度的にも剛性的にも不利なので、急降下時に好ましくないと判断されたわけです。
さらに主脚を格納するにはそれ相当のスペースや引き込み式の構造が必要で、重量増や主翼厚の増加になります。
主脚の格納が空気抵抗低減のためなら主脚のカバーを空理的に洗練させればいいと、かなり思い切った選択をしたわけです。

愛知の十一試艦爆は初号機が完成た後は速度や上昇性能は要求をクリアしたものの、不意な自転や補助翼が操作時必要以上に舵角が大きくなる問題が発生したそうです。
不意な自転は翼端失速が原因で主翼前縁を変更となりました。
ところで九九艦爆ですが、垂直尾翼の前に背びれがついてますね。
これは機首上げ姿勢時に方向安定性が不足すると自転を誘発するため、その対策で設定されてるんですよ。
一方補助翼の問題はなんと組み立て治具の狂いが原因で、設計時よりもずれていたことによって発生していたそうです。
これらの問題解決に1年以上かかったわけですが、
それでも結果は速度・上昇性能に優れた愛知が選ばれることになりました。
急降下爆撃機の技術的ハードルがそれだけ高いってことなんでしょうね。
ここに昭和14年末に九九式艦上爆撃機が誕生しました。



ところで主翼の下に何か見えませんか?
公園のベンチのようにも見える大型のアンテナ?板?
実はブレーキです。
急降下爆撃機は目標に対して急角度で降下し、爆弾を投下します。
そうすれば当然機体は高速になって高い運動エネルギーの状態で地面に接近することになるので機体を引き起こせなくなってしまいます。
これが複葉機なら空気抵抗が大きくて速度もおそいので急降下速度もある程度落ち着いたものですが、全金属製単葉機ではそうはきません。
速度を抑えるにはブレーキが必要です。
そこでブレーキになる小翼を設定して急降下制動板としてとりつけたわけです。
急降下に入るときはこの小翼の向きを90度変えて空気抵抗で速度が出過ぎないようにしたんですね。
ちなみに敗れた中島案では格納式の主脚を急降下時に展開してブレーキにしたそうですよ。
爆弾は主翼下と胴体中央下に懸架しますが、胴体下の爆弾は投下する際にプロペラと当たってしまいます。
これが水平爆撃なら問題ありませんが急降下爆撃は機体の軸線上に爆弾が進む(実際には放物線を描きますが)のでこれは問題。
そこでブランコのように揺動することで機体から大きく離す爆弾投下誘導枠を設定していました。


急降下爆撃は爆弾の命中精度は非常に高いのですがかなり危険なものがありました。
まず高度3000メートルで目標への投下地点まで接近し、降下角度50度から60度という急角度で目標に向かって急降下を行います。
高度450メートルまで降下するとそこで爆弾を投下し、機体を引き起こします。
聞くだけでも怖そうですが、実戦ではこれに敵の戦闘機の迎撃や対空砲火が加わります。
目標に向かって急降下していくという事は、敵からしてみれば急降下爆撃機はこちらに向かって突入してくるということです。
つまりその方向に対空砲を向ければ、砲弾に向かって爆撃機が突っ込んでくるわけです。
さらに爆弾投下後の引き起こし後は速度も落ちますし、海面に大きく近づくわけですから、敵の対空砲火に低空でさらされることになります。
この間は味方戦闘機の護衛も得られませんし、回避行動もできません。
無誘導爆弾で爆撃の計算機がなくても高い命中精度(インド洋海戦では80%以上だったとか)が得られる一方で対空砲火からの被害は深刻なものがありました。
爆撃コンピュータの進化で通常の爆撃でも急降下爆撃以上の命中精度が得られるようになると危険な急降下爆撃は行われなくなっていきました。

以上、九九式艦爆でした。
Posted at 2016/09/25 02:31:32 | コメント(2) | トラックバック(0) | ミリタリー雑誌 | 日記

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