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アスロックのブログ一覧

2016年09月07日 イイね!

であごすてぃーに零戦二一型

お盆休みは広報館すら行ってなくて、通ってる病院と買い物と某ビデオレンタル店で化物語を借りに行くぐらいしか家から出てません。
まぁ諸般の事情があるとはいえ、基本的に引きこもり気質ですしね(^^;
ひたすらプラモ作って化物語を見てるだけの1週間だったなぁ・・・・。


さて、プラモで忘れがちですがもちろんこれも続けていますよ。

であごすてーに。


第11号は零式艦上戦闘機二一型です。
零戦は第2号で五二型が出ていますが、艦上戦闘機のイメージを考えるとやはり二一型は外せませんね。



モデルのほうは前回の五二型の仕様違いといった感じですが(そりゃそうだ)、雰囲気はもちろん、形も結構違います。
カウルの形状なんか見比べるとずいぶん違うんだと再認識させられます。
何の偏見もなく「零戦らしさ」だけで選ぶと二一型よりもカウルの形から五二型のほうが「零戦らしい」と感じてしまうので不思議です。
モデルのほうは・・・・正直う~んといったところ。
別に今までのモデルと比べて著しく形状が変とか品質が悪いというわけじゃないですよ。
機体にはパネルの溝を黒い線が入れられています。
プラモで言う墨入れのようなものですが、明灰色の機体ではやたらこの黒い線が目立つんです。
五二型や雷電のように緑色の機体なら黒い線はさほど目立たないのですが・・・



雰囲気は悪くないですね。
主脚カバー内側や脚収納部は青竹色に塗られています。
それにしても・・・ピトー管は手抜きすぎじゃね?
別パーツにしたほうが絶対に良かった。



零戦をちょこっと紹介。
零戦は正確には「零式艦上戦闘機」といいます。
零式というのは紀元2600年に制式化されたことを示します。
例えば「二式戦闘機」といえば紀元2602年、「九六式戦闘機」といえば紀元2596年になります。
紀元というのは神武天皇が即位したときから数えたときの暦で、紀元2600年は昭和15年になりますが、この年は紀元2600年記念行事が盛大におこなわれたそうです。
そりゃ国の歴史でひとつの国として2600年も続いたなんて世界でも珍しいし誇らしいことですものね。
神武天皇が即位した日を「紀元節」として戦前は祝日となっていました。
戦後はこの日は建国記念の日として建国を祝う日として定められています。
・・・そういえば一部のアレな人たちが軍国主義に繋がる(どういう論理だ・・・?W)とか騒いで集会やってたりしますね。
おっとずれてしまった。
とにかく零戦は紀元2600年(昭和15年)に制式化された艦上戦闘機ということになります。
艦上戦闘機って何?ということになりますが、これは空母で運用する戦闘機を意味します。
空母で自分の力で離艦・着艦する飛行機を「艦上機」といいます。
一方で戦艦や巡洋艦などから飛ばす水上機を「艦載機」といいます。
日本海軍は艦上機と艦載機を分けて呼んでいたようです。
米軍はひとまとめで艦載機と呼んでるっぽいですが。
さっきからでてきてる「二一型」とか「五二型」というのは仕様差によるタイプで、生産期間中に軍の要望で強力なエンジンや機銃に換装したり、主翼を変更するなどでタイプをわけています。

さてゼロ戦といえば緑色では?と言う人も多いと思いますが、初期(二一型や三二型や二二型の初期生産)は全面明灰色だったんです。
零戦は空母で使う戦闘機ではありますが、南方の基地航空隊で使うことも増えてきました。
明灰色は空から見るとジャングルなどに覆われた地上の基地では非常に目立つわけです。
そこで濃い緑色に塗られるようになったそうです。



そのゼロ戦ですが、やっぱり有名ですね。
雷電、飛燕、隼・・・
いろんな戦闘機がありましたがプロペラがついてる日の丸戦闘機といえばほぼ「ゼロ戦」と返ってくるぐらい少なくとも名前は知られています。
そのバツグンの知名度は末期の特別攻撃の悲劇的な物語の印象もありますが、やはり中国戦線、太平洋で大活躍した最強の戦闘機と言うところが大きいと思います。

昭和11年6月に海軍は戦闘機の性能標準と言うものを出しました。
これは後の零戦開発のベースになる性能仕様になるわけですが、実はこのとき空母機動部隊を攻撃の主力とした航空作戦を考慮したわけではありませんでした。
まだ当時は戦艦と戦艦が砲撃戦で艦隊決戦を決めるという構想が主流でしたから・・・当たり前といえば当たり前なのですがちょっと驚きですね。
ではなぜ後のゼロ戦が長大な航続距離をもっていたかというと・・・
当時は空母は補助兵力的な扱いでした。
戦艦などから離れた場所で行動して戦艦部隊の防空や、敵の戦艦の弾着観測機を撃退するためのものだったんです。
その後発生した支那事変で急を要すると判断され、航空戦の教訓などを織り込んで計画要求書が昭和12年10月にだされました。
この時期は九六式艦上戦闘機の量産が始まったばかりですが、九六式艦上戦闘機は非常に運動性がよく中国戦線で大活躍しました。
新型戦闘機の要求仕様はこの九六式艦上戦闘機と同等の運動性をもち、速度と上昇力をさらに高いものとした上に20ミリ機関銃という大火力の装備を装備することというものでした。
運動性が良いというのは軽くないとダメですが、速度や上昇力を向上させるということはさらに強力なエンジンが必要、つまり重く機体の大型化が必須です。
航続距離は大量の燃料を積むことが必要ですし、20ミリ機関銃は当然重たい。
にもかかわらず九六式艦戦同等の運動性をもたせろ。
・・・ムチャいったらあきまへんがや・・・
この航続距離(時間)ですが、どれぐらいとんでもないかというと仕様書には巡航速度で6時間だったそうです。
米国のF4FやF2Aなどの単座単発戦闘機がせいぜい3時間が限界だったようですからもうムチャもいいところです。
なぜ海軍がこんなムチャを出したかといえば、中国戦線では長距離を飛ぶ味方爆撃機を援護することが求められたからです。
九六式戦闘機では対応できなかったわけです。



後ろから見ると特に感じますがゼロ戦って胴体がすらりと細長いですね。
これは20ミリ機関銃の命中率を上げるためです。
反動の大きい20ミリ機関銃に対処するためモーメントアームを長くして方向安定性を高めることで命中率の向上を図ったそうです。
さて運動性の決め手となるのはエンジンと主翼です。
速度性能を求めるなら翼は薄く、面積も小さくすればいいのですが、主翼の中に入る燃料タンク量は小さくなりますし翼面荷重が大きくなるので機動性は落ちます。
そこで速度に対しては不利ながらも翼面積を大きく取り、主翼の厚さも大きくしました。
その対処として徹底的な軽量化と空力の洗練を追求したわけです。
まず操縦席の風防(窓ガラスね)をそれまでの開放式から抵抗の少ない密閉型にしました。
それまでは開放式が当たり前で視界が制限される密閉式はかなりの反発があったそうですね。
それと主脚をそれまでの固定式から引き込み格納式にしました。
今では当たり前の技術ですが当時としては画期的だったんでしょうね。

ゼロ戦といえば軽いというイメージがありますが、軽量化は最も力を入れていたそうです。
全備重量は2.3トンを目指していましたが、重さのコントロールを10万分の1単位(23グラム!)でやって少しでも軽量化を目指していたそうです。
構造材には住友金属が開発したばかりの超超ジュラルミンというアルミ合金を使用しました。
従来の超ジュラルミンと比べると抗張力が30%以上優れる新素材を採用したわけです。
他にも構造材では剛性に問題ない場所に丸い孔をあけて軽量化を地道にするなどで軽量化に務めたわけです。
零戦二一型の自重は1754kgですから先代クラウンと同じぐらい。
信じられますか?全長12m、全幅9mという大きな飛行機の重さがクラウン1台分ぐらいしかないんですよ。




さて後の零戦となる十二試艦上戦闘機の1号機は昭和14年3月に完成しました。
さあ初飛行・・・となるのですが、十二試艦戦は名古屋にある三菱の工場です。
当時は航空機メーカーといえども自前の飛行場は持っていなかったので、岐阜県の各務原飛行場(今の航空自衛隊岐阜基地)で初飛行を行ったのですが、牛車で運んだとばい!
1日かけて40km離れた各務原に運んだのはトラックではなく牛車。
当時は道路事情もよくなかったので貴重な機体を壊さないようにゆっくり牛車を使って運んだわけです。
そして4月1日に初飛行となったわけです。
その後エンジンの換装(サラっとかいてますが実はとんでもないことなんですよ。ただサイズが近くてすんなりいったのが幸いだったようです)や試作2号機の空中分解事故などの問題をクリアして昭和15年7月2日に「零式一号艦上戦闘機」の名前が付与され、ここにゼロ戦が誕生しました。



さてこのモデルは零戦二一型ですが、この二一型というのはサブタイプの型式のようなものです。
試作型の十二試艦上戦闘機は何機か作られたのですが、試作3号機以降と初期の機体は零戦一一型と呼ばれています。

この一一型をベースに水上機にしたのが二式水上戦闘機です。
水上機のフロートを零戦につけたものですが、運動性能は九六式艦戦には劣るものの水上機としてはバツグンの機動性だったようです。


零戦は空母で運用することを考えた艦上戦闘機なので着艦フックを搭載するなど艦上戦闘機試用にしたのですが、実際に零戦を搭載してみると空母のエレベータのサイズに対して結構ぎりぎりだったんです。
そこで主翼の翼端を上に折りたたむ構造を追加しました。
これは零戦一号艦上戦闘機二型と呼ばれ、後に零戦二一型とされました。

この後、加給機を二速としたエンジンに換装して主翼を50cmほど切り落とした速度向上をねらった型が作られました。
これは零式二号戦闘機、後に零戦三二型と呼ばれます。
零戦三二型は航続距離が劣ったので、燃料を増やして主翼を二一型とほぼ同じものにしたのが零戦二二型です。
三二型より速度はわずかに下がりました(二一型よりは高速)が航続距離は大幅に向上したようです。
この二二型から主翼の折りたたみ機構をなくしたものを一二型と呼ばれていた?・・・・そうです。


この後二二型をベースに、主翼の折りたたみ機構を廃止と同時に主翼を短縮して速度性能を向上させ、さらにエンジンの排気管を推力式単排気管にして推力向上をねらったのが零戦五二型、さらに20ミリ機関銃を換装した五二甲型、右側胴体銃を7.7ミリから13ミリ機銃に変更した武装強化型が五二乙型、さらに武装と防弾を強化したのが五二丙型があります。
そのほかに水メタノール使って瞬間的に速度UPをねらおうとしたり戦闘爆撃型や複座練習型、複座偵察型、夜間戦闘機型などさまざまな派生方や量産されなかったものの計画が進められていたタイプがあります。



以上、零戦二一型でした。
Posted at 2016/09/07 00:32:17 | コメント(3) | トラックバック(0) | ミリタリー雑誌 | 日記
2016年07月01日 イイね!

であごすてぃーに流星

であごすてぃーに2連発いくよ。
本当ならこのあと零戦がきますが、これを書いてるときはまだ入手してませんばい。



であごすてぃーに。
10号は艦上攻撃機愛知流星です。



モデルのほうはとにかく「でかい」のひとこと。
本当に大きいんですよ?



「雷電」と比べると一目瞭然。
かなり巨大です。
「流星」は全幅14.4m、全長11.5m。
自衛隊のF-15戦闘機の全長は19.4mなので大きさがイメージしにくいですが、
同時期の戦闘機の零戦が全幅12m、全長9.1mですからふた周りほど大きいことになります。
現用機で比べても
F-16戦闘機・・・全幅9.5m、全長15m
サーブ39グリペン戦闘機・・・全幅8.4m、全長14.1m、
決して引けを取らない大きさだったりします。



「流星改」を前から。
まずめにとまるのは主翼の不思議な形です。
胴体付け根からは外側に下がっていき主脚のとことを境に外側では大きく上に向いています。
こういうのを「逆ガル翼型」などといいますが、これこそが「流星」をあらわしています。
「流星」は空母から出撃して爆撃で敵艦船や基地などを攻撃する艦上攻撃機と魚雷を搭載して敵艦艇を沈める艦上爆撃機の両方を統合した全く新しいジャンルの攻撃機です。
空気抵抗になる爆弾は機外ではなく機内の爆弾倉に搭載しますが、構造上翼は中翼配置になります。
胴体の高い位置に主翼があるのでそのまま水平に主翼を配置すると主脚が長くなってしまいます。
そこで短くまとめるために逆ガル翼型としてるわけです。



モデルのほうはもう少しがんばってほしいところ。
全体的なフォルムはよいのですが、カウルが手抜き(というかカウルの変なところで分割してるのでやたら違和感がある)のと爆弾倉と胴体の隙間が大きい。
でも手ごろな値段で流星改のボリュームのある機体を堪能できますよ。



横から。
巨大な魚雷が目を引きます。
魚雷・・・大きいですね。
九七式艦攻などが搭載した九一式改一魚雷は炸薬785kg、改二魚雷では838kgもあったそうです。
搭載できるのはわずかに1発ですが、命中すれば大型の艦艇でも大きな被害を与えることが期待できたわけです。
モデルの魚雷はちょ~っとがんばってほしいなぁ。
航空機に搭載する魚雷は投下してから海面に落下するまで軌道を安定させる框板という部品が付くのですが、このモデルにはついてません。
残念。




逆ガルの翼につい目が行ってしまいますね。
流星は艦上攻撃機とはいえ、乗員は2名です。
艦上攻撃機は3名で行われるのが普通ですが、ここは「雷撃もできる艦上爆撃機」といったほうがいいかもしれませんね。
爆弾を積む艦上爆撃機と雷撃を行う艦上攻撃機をひとまとめにするというのは当時としては非常に斬新ですがそれには理由があります。
当時艦艇の装甲はドンドン厚くなっていって防禦性能が向上していました。
そうなると艦爆が使う250kg爆弾では威力不足となってしまうので大型の500kg爆弾が必要になってきたわけです。
さらに対空火器を重視してきたので雷撃を行う艦攻にとっては回避する能力やそれに耐えられる強度が求められるようになりました。
つきつめていくと艦攻と艦爆の設計上の違いがなくなってくるわけです。
それならばまとめてしまえというのが流星のコンセプトで、これは戦後米海軍のA1Dスカイレイダー攻撃機がまさにこのコンセプトで大成功するわけです。



主脚の幅間(トレッド)は5.3m。
かなり幅が広いですね。
この大きな主翼にはもちろん燃料タンクが配置されています。
主翼の右側左側それぞれ内翼に4個の燃料タンク+外翼に1個の燃料タンクが設置されています。
航続距離のほうは1850kmと九七式艦攻の2322kmと比べると控えめな数字ですね。



主翼には20mm機関銃が搭載されています。
機銃は九九式艦爆や九七式艦攻にもその後継の天山や彗星にも搭載されていますが7.7mmにとどまっています。
流星の20ミリ機関銃は空中戦ではなく水上艦艇への銃撃用なのですが、重くてスペースも必要な20ミリ機関銃が必要だったのかは議論が分かれると思います。



流星改は800kgの爆弾または魚雷を搭載できました。
エンジンは誉一二型という空冷18気筒エンジンを搭載していました。
1825馬力のパワフルなエンジンで最高速度は543km/hとかなり高速を実現しました。
性能のほうは申し分ない流星改なのですが、実はかなり痛い失敗がありました。
流星の試作発注は昭和16年夏、1号機の完成は昭和17年11月だったのですが、構造強度計算に不手際があったようで要求値を大きく下回る結果になってしまったようです。
そこで全面的な改設計を行い昭和19年春にはようやく要求性能を達成できる見込みとなり昭和20年3月に「流星改」として制式採用されました。
既に戦況は悪化し搭載されるべき空母はなく、聯合艦隊の主力は空母や戦艦ではなく海防艦となていました。
引き渡された機体は本土決戦のために温存され、発出撃は終戦直前の昭和20年7月下旬、しかも特別攻撃だったそうです。
流星はわずか数回の出撃の後に終戦を迎えています。


以上、傑作機コレクション10号「流星」でした。
Posted at 2016/07/01 00:32:05 | コメント(1) | トラックバック(0) | ミリタリー雑誌 | 日記
2016年06月29日 イイね!

であごすてぃーに三式戦闘機(キ61)

前回のUPからずいぶんたってしまいました。
実は今プラモを作ってるんですが、エアブラシを使って塗装しています。
いやぁこれが難しいのなんのって。
しかもいままであまり気にしなかったパーツとの隙間やバリなんかはそこそこやったつもりでもサーフェイサふくと目立つ目立つ。
とりあえずは今は練習のつもりで作っては塗っています。
でも楽しいですね、やっぱ。
スケールは1/72なのでこのであごすてぃーにのシリーズと同じなのですが、わずか20年ぐらいでここまで飛行機って巨大化するのかって驚きます。


さて

であごすてぃーに。



第二次大戦傑作機コレクションの第8号は三式戦闘機(キ61)です。
それにしてもこのシリーズって結構飛ばしますよね。
雷電、零戦五二型、キ43、紫電改、キ84、キ61ですからね。
3号に2号は日本機です。
日本機ファンとしてはうれしいですがペース速くない?



さて三式戦闘機(キ61)ですが、キ43やキ84と比べるとずいぶん印象が違いますね。
先がとんがった機首、胴体下には箱型のものが見えます。
これこそがキ61の特徴です。



モデルのほうは前回に比べるとずいぶんよくなった感じがします。
全体的なフォルムは結構良いんじゃないでしょうか。
ただ胴体下はもう少しどうにかならないかなあという部分はあります。



胴体の日の丸がずれてるぞ~!
これはなんとも残念。
さて、上でキ61は他の機体と比べるとずいぶん印象が違うと書きましたが、横から見ると特徴的ですね。
キ61は液冷エンジンを搭載しているんです。
エンジンは内部で燃料を爆発させてエネルギを取り出しているわけで、猛烈な熱を発生させます。
それを冷やすには空気で冷やす空冷と水で冷やす水冷があります。
飛行機も同じで零戦など当時の日本機では飛ぶことで前方からくる空気を使って冷やす空冷が一般的ですが、水を使って冷やすものもあります。
でも高いところを飛ぶ飛行機の場合、水を冷却に使うと低温で凍ってしまうので不凍液を使っています。
これが「液冷」エンジンというわけです。



零戦やキ43など多くの戦闘機では空冷エンジンを使っていますが液冷は少数にとどまっています。
それは構造が複雑だから。
その中でも川崎は液冷エンジンにかなり熱心で昭和5年に1号機が完成した九二式戦闘機には液冷エンジンを搭載していますし昭和8年の試作機キ5、昭和10年の九五式戦闘機(キ10)、昭和11年の試作戦闘機キ28を開発し、さらに昭和15年に液冷エンジンを搭載する重戦闘機(キ60)と軽戦闘機を開発しています。
この軽戦闘機がキ61ですから川崎は相当な「液冷ヲタ」だったようです(^^)
複雑ということは稼動させることが難しいということ。
実際液冷エンジン機は非常にエンジンの不調に悩まされたとききます。
それでも液冷エンジンを選びたくなるのは空気で冷やすより水(冷却液)を使って冷やすほうが効率が良いので性能を発揮しやすいから。
つまりまともに動けば非常に高性能なのが液冷エンジンってことになります。



若干部品の隙間がありますが、2000円と言う値段を考えればそれほど気になりませんね。
さてこの角度から見ると非常に流麗で機首周りが零戦などとは大きく違うことに気がつきます。
コクピットから機首先端までずいぶん長いですね。
コクピットの一番前方側からプロペラのスピナ先端まで2890mm。
基準位置からプロペラ中心まで2060mmもあります。
機体は共通でより馬力の大きい1500馬力空冷エンジンを搭載する五式戦闘機(キ100)が1718mmですからキ61の機首の長さは特徴的ですね。




後ろから。
雷電にくらべるとはるかに長いですが幅が細い主翼ですね。
キ61の主翼は全幅12m、面積20平方mで翼面荷重は零戦やキ43と比べるとかなり大きい(約1.5倍)なのですが、設計した土井技師は運動性能は翼面荷重を単に小さくすれば良いわけではなく、翼幅荷重にも左右されると考えていたようで弦長を小さくしてその分幅を大きくしてアスペクト比を7.2と大きくした細長い主翼としたわけです。




斜めから。
こうしてみると機首周りはイタリヤのマッキMC202に似てるかもしれません。
これはキ61と同じエンジンを使ってるからです。
キ61のエンジンはドイツのダイムラーベンツのDB601という液冷V12エンジンをライセンス生産したハ40を採用しています。
当時の日本は設計能力は高いものの、安定した品質を確保して生産する品質管理が弱く、しかも複雑で整備も難しかったたことでこのエンジンは不調が多く、稼動させることは大変だったそうです。
しかも当時の零戦などの戦闘機の機体寿命は100時間程度だったそうです。
そりゃそうですよね、今の小型飛行機とかわらない大きさの機体に1000~2000馬力のエンジンを積んで超絶機動をするわけですから。
相当機体にストレスもかかるでしょう。
戦闘機動をするとさらに寿命が短くなったようで、寿命に達した機体は練習や連絡機として使われたり現地で処分されたりしたそうです。
もちろん機体より先にエンジンのほうが寿命に達してしまいます。
キ61がどれぐらいなのか判りませんが、仮に同程度だったとしてニューギニアやフィリピンに展開するとそこまでのフェリー飛行だけで片道数時間飛ぶわけですからエンジンや機体の寿命の何割かが消費されてしまいますし、ましてや高温多湿の東南アジアでは整備もさぞ大変だったんだろうと思います。




さてさっきから気になる機体下の箱型のもの。
これなんでしょう?
これは冷却器(ラジエタ)です。
液冷エンジンは熱交換で熱くなった冷却液を冷やす必要があります。
液冷エンジンは機首まわりをキリっとしぼって空力的に有利にすることができますが、一方で冷却液を冷やす冷却器という荷物がどうしても重荷になってしまいます。
当然重いし空気抵抗になるのでこの処理をミスるとせっかく液冷エンジンを積んでもその利点が全部消し飛んでしまいます。
キ61は胴体下面に反埋め込み式とすることで空力的な問題を解決したようです。
しかし・・・モデルはちょっと再現度がどうにかならなかったんだろうか・・・・?



以上、キ61でした。
Posted at 2016/06/29 00:29:10 | コメント(2) | トラックバック(0) | ミリタリー雑誌 | 日記
2016年05月08日 イイね!

であごすてぃーに四式戦闘機(キ84)

さてGWも終わったわけですが、まだ終わらないのが仕事と部屋の掃除とでぃあごすてぃーにです。

であごすてぃーにWW2傑作機コレクション、今号の7号はこれです。
でん。

四式戦闘機疾風(キ84)です。



パッケージとるとこんなかんじ。


さてモデルのほうですが

どことなくいや~なオーラを感じます。
いやフォルムは問題ないですよ。
しっかりキ84の形を再現してると思います、


自衛隊モデルコレクションのように「であごすてぃーに臭」がぷんぷんするんですよ。
具体的に言えばこの写真、キャノピがえらい浮いてません?
部品の隙間も広い上に塗装も・・・
塗装そのものは悪くないのですが、よ~く見ると胴体と主翼の色が違うんですよ。
主翼の黄色のラインもえらい不自然(丁寧には塗られてるんですよ)ですし、カウルのところの排気管も塗り分けられていない。
そういえば7号から生産国が中国からバングラディシュになったようなので全体的な質が下がったのかな・・・・
8号がどうなるか気になります。




モデルのほうはいくつかむずむずっとするところがありますが実機のほうを。
対米戦争が始まった昭和16年12月の時点で陸軍の戦闘機は九七式戦闘機でした。
まだ一式戦闘機(キ43)はわずかに2個戦隊分40機程度。
重戦闘機の鍾馗(キ44)はまだ制式化もされていない状態。
これはヤバイと思った陸軍は新型戦闘機を昭和16年12月末に中島に試作内示します。
制式発注は昭和17年4月なのですが、初号機の完成は1年以内というムチャ振りだったようです。
キ84は2000馬力級の大馬力エンジンの搭載が求められていました。
隼(キ43)のエンジンが1000馬力級ですからその2倍のパワーです。
大馬力エンジンを搭載すると言うことはそれだけハードルも高い。
1年未満と言うのはかなりきつい・・・・



キ84、なんとなくですがキ43(隼)に似てると思いません?
ほら
これには理由があります。
大馬力エンジン搭載で対米戦争が始まってる中でばたばたしているのに完成までは1年未満。
そこでリスクの高い斬新な設計をやめキ43やキ44を踏襲したわけです。
出来た機体は思いっきり従来機の流れをくむ外観になったわけです。



後ろから。
キ44ほどではないですが、大馬力エンジンを積んで太くなった機体をぎゅっと絞った胴体って感じですね。
キ84は陸軍では大馬力エンジンを搭載して上昇能力と速度性能を活かして爆撃機への迎撃を行う重戦闘機と言う認識でした。
(キ43のように速度性能・上昇能力性能よりも格闘戦能力に大きく重視したものは軽戦闘機といいます)
ところが開発した中島にとっては軽戦闘機、重戦闘機と定義してることに違和感を感じ、その定義にとらわれず連合国軍戦闘機を圧倒できる新型戦闘機を目指して開発したそうです。



重戦闘機なのに主翼が以外にも広く感じません?
軽戦闘機のキ43の118kg/m^2には及びませんがキ84の翼面荷重は185.2kg/m^2それなりに低い値にしています。
上昇力や速度性能だけでなく相応の運動性能を与えていたわけです。


昭和17年4月に正式に試作発注されたキ84ですが初号機は昭和18年3月に完成しました。
性能確認テストでは要求仕様に対してかなり低いものだったようですが、飛燕(キ61)が不調だったこともあって既に陸軍にはキ43の後継はこのキ84しかないこともあって・・・
増加試作機を100機発注したわけです。
だいたい10機程度が相場なのにケタが1つ違うとばい!(最終的には125機だったようです)
それだけ陸軍はこのキ84にかけてたんでしょうね。
終戦までに17ヶ月間におよそ3500機の生産がされ、月平均200機以上というペースでした。
この生産能力は驚異的としか言いようがありません。



キ84は大馬力のエンジンのほかにもうひとつ特徴的なものがあります。
それはプロペラ。
「ペ三二」と言うプロペラなのですが、フランスのラチェ式を国産化したものでピッチ偏向を電気的に行うシステムです。
今まで使ってたものでは2000馬力のパワーを効率よく吸収しきれないという判断で採用されたもので採用されたのですが、調速機を当時の日本の工業力では品質のよいものは作れなかったことや慣れない電器式で現場が整備上問題があったりとかなりのトラブルをかかえていたそうです。
エンジンも大馬力ではありますが熟練工が行う職人技が必要な加工技術が不可欠だったこともあって終始このトラブルに泣かされたそうです。
それでもこの悪い条件の中で中国大陸戦線ではP-51などと互角以上の戦いをしたわけですから搭乗員の練度はもちろんですがキ84の性能が優れていたといえます。


以上キ84でした。




Posted at 2016/05/08 16:02:44 | コメント(1) | トラックバック(0) | ミリタリー雑誌 | 日記
2016年04月10日 イイね!

であごすてぃーに雷電

さて05号です。
創刊号が紫電改、02号が零戦五二型、04号がキ43と、4号中3号が日本機です。
えらいペースだなぁ。
この後大型機はのぞいてもキ44、キ61、キ84、キ45、九九式双軽爆零戦二一型、二式水戦、月光、紫電、秋水、九七式艦攻、九九艦爆、銀河、彗星、橘花、烈風、震電・・・と試作機含めてメジャーどころがいっぱいあるのでネタには困らないか。
あ、橘花については特別攻撃機という分類ではありますが、いわゆる特攻機ではなく帰還を前提とした攻撃機(陸軍の火竜は戦闘機)として開発されていたようですよ。



ということで05号は海軍局地戦闘機雷電です。
ちなみに第07号はキ84なのでこれも楽しみ。



モデルのほうは今回も悪くないですね。
やはり筋彫りの代わりに一部は黒い線で表現されていますが2000円未満という値段を考えればこれは我慢できるのではないでしょうか。
派手な否妻模様の352空の機体なのもうれしいですね。



局地戦闘機「雷電」といいますが、「局地」というのは軍事上の要地のことでそれをまもる戦闘機。
局地戦闘機というのはいわゆる迎撃戦闘機のことをいいます。
元々海軍は艦上戦闘機1本に絞った戦闘機の装備体形だったのですが、昭和13年の中支戦区の漢口で中国軍爆撃機による奇襲をうけて被害を受けてしまいました。
九六艦戦が迎撃にあたったものの、防空戦闘では対処が難しいことがわかり、敵の爆撃機から局地の防空戦闘を行う局地戦闘機と長距離まで進出して爆撃機を護衛する長距離戦闘機の装備体形を作ることを決め、昭和14年に試作発注して生まれたのが雷電ということになります。



深緑色に日の丸が描かれてるので日本の戦闘機に感じますが、あらためてみてみるとどこか日本の戦闘機っぽくないシルエットに感じますね。
繊細で華奢な零戦やキ43と比べるとずんぐりでどこか重そう、それでいて非常にパワフルという感じがします。
この設計を担当したのは零戦の堀越技師なのですが、全く正反対に感じる機体で面白いですね。



後ろから。
零戦やキ43と比べると翼が短くみえます。
零戦二一型が全幅12m、全長9.05mに対して雷電は全幅10.85m、全長9.7m。
全長は60センチ以上雷電のほうが長いのに幅は1メートル以上短い!
これは雷電が求められた大火力で速度性能と上昇能力をもつことという要求仕様からくるものです。
最高速度602km/hという速度性能高度6000mまでの上昇時間5分30秒、7.7mm機銃と20mm機銃をそれぞれ2挺装備することというかなりのスペックだったようです。
零戦の要求仕様では速度500km/hでしたから実に100km/hの速度アップ!
これはもう強力なエンジンがなくては成立しません。
ただし運動性能や航続距離などは二義的なものとされていました。
この辺は零戦と対照的ですね。



機首が本当に太いですね。
零戦のエンジンが940馬力に対して雷電のエンジンは1800馬力と、2倍近いパワーです。
面白いのはこのエンジンですが大馬力なので当然直径も大きいのですが空気抵抗がバカになりません。
そこでプロペラの軸を前方に延長してその周囲を先を絞ったカウルで覆ったわけです。
それと速度性能重視のため、運動性能は二義的なものとされていたので重量増や抵抗をさけるため主翼を小さなものとしたのですが、翼面積が小さくなれば当然翼面荷重があがります。
零戦二一型が107kg/m^2に対して雷電は190kg/m^2と実に2倍近い翼面荷重となりました。
揚力は速度をあげることで得られますが主翼面積が小さい(翼面荷重が大きい)ということは速度をより上げないと揚力が得られないということなので旋回性能や低速での運動性能は低下してしまいます。
ここは対爆撃機に対して高速で接近して迎撃を行う雷電の用途を現してると思います。
主翼には空中戦時に使えるようファウラー式フラップを採用していたようです。




機体下に見えるでっぱりは水メタノール噴射装置のようです。
加給器で加圧された混合気を冷却するためのものです。
大馬力エンジンで高度1万メートルでの機動もできたため、本土防空戦ではB-29迎撃にも活躍しました。
ただ扱いが難しく、エンジンの振動問題もあったようで、零戦のような機動性重視から雷電の機動性は二の次で大パワーで速度重視の機体は搭乗員も戸惑ったと聞きます。
軽戦闘機と重戦闘機の過渡期の機体といえるかもしれませんね。
Posted at 2016/04/10 13:58:07 | コメント(1) | トラックバック(0) | ミリタリー雑誌 | 日記

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