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ロンバードのブログ一覧

2024年05月27日 イイね!

2024 FTPと富山から長野 Day2と3


ホテルから鱒寿司の川上商店まで歩いて行って、その後富山駅で立山そばを朝食にと思っていましたが、天気予報は外れて朝から雨が。

予定変更で、チェックアウトして車で川上商店に。10分ほど早着でした。



写真は帰宅後に食べる時のものです。



この朝販売の鱒寿司は有効期限は二日ですから、帰宅して食べれます。その時に強く言われたのが、冷蔵庫、クーラーボックスで冷やさないでと。常温で大丈夫ですと。なので、クーラーボックスは持って行ってましたが、それには入れずに車の室内に置きました。

朝食は、むっちゃ久しぶりのすき家で。





コロナ前の遠出は、自宅近くのすき家で朝食でしたが、コロナでそれはやめてコンビニで買って食べながら走ることをしてました。それに慣れるとこれでいいと思ってましたから、すき家、松屋には行ってませんでした。

この日の最初の参拝は、六角精児の番組で知った日石寺に。









真言宗の本山の一つのようです。滝修行ができる滝がありました。



その後その滝の下の階層の場所に行くとまた滝が。十二支の滝とありますが、上の階層の水がこの階層に落ちてくるんではと疑ってしまします(笑)。





この滝もそうですが、観音堂、三重塔と新しい建物なんですよね。そこがなあ〜。



本堂にある石仏はなかなかでした。





六角精児は参拝後にそうめんを食べていました。場所は寺に隣接する旅館です。すぐにそこは分かったのですが、9:00くらいですので、クローズの状況でしたので断念です。




次は立山寺を計画していましたが、GooglmapのStreetViewで見ると熊に注意となってます。この時期、熊の話が多いのでそこはパスして、魚津の千光寺に。

千光寺は元々は大きな寺であったようですが、長尾景虎が焼き討ちして現在は観音堂と三つの坊(寺)が残っています。





観音堂には千手観音像安置されてます(秘仏)。



すぐ隣の光学坊がありますが、正面から見た感じ、まんまり来て欲しくないパワーを感じたので、観音堂参拝だけで終わりました。



ここから下道で長野を目指しますが、スキー仲間(一回り年齢は若いですが)の夫婦が愛知県から新潟県糸魚川に移住し、そろそろ糸魚川に住み始めるとのことで、表敬訪問することに。

国道8号の親不知の部分はすごい道ですね。何回も走ってはいるんですが。
友人の家の前に行くと、サカイ引越センターのトラックが道を塞いでいます(笑)。えっ今日が荷物入れの日なんだ!



家には旦那がいて、この移住の経緯を聞きました。嫁の方からは理由を聞いて無かったので、やっと理解できました。まあこれはプライバシーなので、ここでは書きませんが。

糸魚川ー白馬の国道ですが、長〜い区間トンネルと洞門の連続ですね。この道も昔から走ってますが、洞門の間から対岸に古い洞門の後らしき物が見えます。今の側にトンネル掘直して作ったんでしうね。

長野市はいつものホテルで、夕食もいつもの居酒屋さんで。

アジの刺身



徳島産煮アナゴ



特大エリンギ(写真なし)。

締めにタイ(焼)の土鍋ごはん(写真なし)

全部美味でした!

酒は塾酒 美寿々です。





店長おすすめの常温で飲みましたが、変わったアジですが病みつきになりそうで。これはどっかで探す価値ありですね。川辺という球磨焼酎も。

ながの東急百貨店の終了時間に間に合ったので、覚えた桜井甘精堂のモンブランを買いました。





コンビニでそれを食べる時に飲むビールも買って。

これでこの日は終わりです。

そして翌日ですが、日本中が大雨注意報、警報の日だったので、いつもの戸隠でそばを食べる計画を破棄して、すぐに帰宅の途に。途中、木曽福島で友人のそば饅頭屋に寄って、糸魚川の件の報告をして。

なんとか雨で道が閉鎖になることもなく帰宅できました。
2024年05月26日 イイね!

2024 FTPと富山から長野 Day1


一週間前のことですが、もうイベントとして定着したFrench Toast Picnic(以下FTP)に行って、富山から糸魚川経由で長野を廻ってきました。

FTPは福井県のあわら市で行われます。今回は岐阜ー福井間の冠山トンネルが開通したこともあって、全線下道で。3時間ちょっとで会場の金津創作の森に到着できました。徳山ダム経由の道ですが、多くのトンネルがあり冠山トンネルは長〜いトンネルで、岐阜ー福井間にこんな資本投下する意味あるんか?と考えながら。まあ、災害が起こった時の複数ルート確保ってことならしゃあないでしょうがね。
私にとってのFTPは毎年の行事でありますが、まあ行くだけですかね。知人のワッキーさんのグループ駐車場に入れてもらってワッキーさんと話をして11時には会場を後にしました。(写真無し)

これもいつもことで、富山で白エビを食べるのが、このFTPに参加するメイン理由です(笑)。

南砺の二山に参拝です。富山県は真宗もお寺が多く、この日は光徳寺と善徳寺です。ともに蓮如上人由来の寺です。

光徳寺です。

遠景は白山方向だと思います。



1月の地震の被害があり、山門は修復中でした。









本堂にはピアノがありました。



光徳寺は前住職が棟方志功と親交があったとかで、寺内には棟方志功の手になる物が多くありました。





駐車場で一枚。



善徳寺は大きなお寺でした。

門の横のあて木は修復ではなく、高級的な補強財のようです。





お寺の職員の方がお一人に寺の説明をされていました。どうも寺宝の拝観料500円を払うとお付きの方に説明を受けれるようですね。私はそれを払わずに本堂の参拝だけでした(汗)。

その説明をタダ聞きしたところによると、同じ真宗の高岡市の勝興寺で文化財保全費を奪い合いに負けて、門徒の方々の寄付と、県、市から補助金で行ったとのことでした。

真宗の教義ではご朱印はないとなっています。しかし寺によっては参拝記念印とか名前をつけてご朱印のようなものを書いているところがあります。この二山には何もなかったようで参拝だけで終わりでした。

ホテルに入ってその後去年と同じ越中舞華に。



事前の予約電話の時に白エビのことを確認すると、今年は白エビの不魚で絶対とは確約できないと脅かされました。店でおねーさんに注文するとウチは年中ありますよと。でも予約の時に脅かされたよと言うと笑って無言でした。

で、その白エビを。



カンパチとカツオの刺身



カニと蓮根のはさみ揚げ



最後にアオサあんかけ豆腐を頼みましたが、これは量的に余分でした(泪)。



この店は〆的な物は寿司だけなので、これだけ食べてブラックラーメンを食べに場所を変えます。

ホテル近くでブラックラーメンを。私にはカツオ出汁が強すぎました。マルかペケかなら、私にとってはペケかな(笑)。



白エビは16:30くらいから食べてましたから、この時点でまだ18:00過ぎなんで、富山駅の土産物売り場を冷やかしに。



日曜日の夕方だからでしょうか、人は多かったですね。白エビ専門店もありますが、私が食べた値段よりは高いですね。





そこで目にしたのは、”不魚で白エビはありません”の張り紙が。







冷凍の白エビの販売店で話を聞きましたが、やはりかなり数少ないようです。



1月の地震で富山湾の中が動いたとの説もあるようです。その方は、量が少ないのに金沢が持ってっちゃうんですよと嘆きが。富山は金沢ほどの新幹線効果が出てないようですね。

別の店で鱒寿司が売ってましたが、私が家に帰る二日後までの有効期限ではありませんでした。

そこで思い出したのが、TBSの安住アナの番組で取材された店。ホテルで検索すると朝6:30から店が開いているとあります。ならば、明日朝にトライしようと。

この日は終わりです。
2024年05月23日 イイね!

私のミャンマー 6


私のミャンマー 5”からの続きです。

ミャンマーの軍事政権ですが、民政移管ができたと思ったらまたクーデターで今に至っています。ミャンマーに関わっての20年で覚えたミャンマーの歴史を少し自分の確認のためにも書きます。

〜1824年

隣接するタイ、バングラデシュ、中国からのいろいろな民族が流入、抗争があり、多くの王朝ができ、消滅していた。

1824年〜1885年

三回の英緬戦争により最後の王朝のコンバウン朝が滅亡し、英国の統治下に入ります。でも英国の直接当地ではなく、英領インドに配合されてインドの1州になります。これはチーママ(インド人)による過酷な統治時代だったようです。
例えば現在のヤンゴン大学はカルカッタ大学のラングーン分校からスタートしたようです。

1937年

1930年頃からミャンマーの独立運動が始まりますが、1937年 英領インドから分離され英国の自治領になります。

日中戦争が始まり、中国の補給路(援蒋ルート)を断つために日本軍はビルマに進撃します。これと並行して日本軍(南機関)がアウンサンを中心とするビルマ独立義勇軍をビルマ独立のために日本、台湾で訓練します。そして1942年にアウンサンの独立義勇軍は日本軍と共に戦い1943年にビルマ国が建国されます。

1944年 中国の補給路を断つ目的のインパール作戦が行われますが、最後は英国軍に負け日本軍は敗退します。日本兵は敗走しますが、マラリア、飢えで次々と倒れたようです。その兵士の死骸が多くの残り白骨街道と呼ばれています。

独立したはずのビルマですが、日本の傀儡政権でること、インパール作戦の失敗による日本国軍の衰退等により、アウンサンは日本と敵対し1945年にクーデターを起こします。連合軍がビルマを奪回します。

残念ながらアウンサンは1947年に暗殺されます。彼はビルマの真の独立を見ることはできませんでした。

1948年にビルマは英国連邦を離脱して独立します。しかし国内は混沌としていたようです。

1962年 アウンサンの部下であり、ビルマ独立30人の志士のメンバーだったネウィン将軍がクーデターを起こします。その後大統領になり、鎖国的なビルマ式社会主義を行います。この鎖国性がベトナム戦争等に巻き込まれなかったという利点のあったようですが。
インフレが進み、1985年くらいには世界の最貧国になってしまします。
そして、ネウィンは1988年に退陣します。

この1998年8月8日に大規模な学生運動デモが行われ軍が出動し大きな犠牲が生まれました。そして鎮圧されてしまいます。この1988年4月に病気の母を見舞いにアウンサンスーチーが英国より帰国していました。
この1988年8月8日がその後8888としてビルマ人に記憶されています。

その後、9月にクーデターが起こります。新たな軍事政権です。

アウンサンスーチーは NLDを結党しますが、自身は1989年に自宅軟禁されます。1990年に総選挙が行われNLDが圧勝しますが、軍政側はそれを認めず民主化勢力への弾圧を行います、

1992年にタンシェ(国軍上級大将)が国家法秩序回復評議会議長兼首相に就任します。内閣は存在しますが、その内閣の上に軍人だけの評議会が存在していました。当時の軍のトップ3人(タンシェ、マンエー、キンニュン)の体制が続いていきます。2002年にナンバー3のキンニュンが首相に就任します。どうも国連、アセアンとかの首相会合にタンシェが出席するとやたら避難されることに嫌気がさしてキンニュンに代わったのが真相のようです。しかし、2004年にキンニュンは逮捕されて失脚してしますます。

2006年に首都がネーピードーに遷都します。

2007年 軍の序列4位のテインセインが首相に就任します。

2010年 NLDがボイコットして総選挙が行われ、その後テインセインは大統領に就任します。この時点で、軍服を脱いだだけのことですが、一応軍事政権は終わったとなっていました。この頃から、ラストフロンティアとかの世界中からのミャンマー詣でが始まり、ホテル代は高騰していきます。日系企業の日本人数も倍増していきます。日本の援助もエスカレートしていきます。日本の支援で工業団地も計画され完成してました。

2015年 NLDが参加しての総選挙が行われ、NLDが圧勝します。しかし憲法上の理由でアウンサンスーチーは大統領になれず、国家顧問、外相を兼務することになります。

2020年に総選挙。これもNLDの圧勝ですが、軍が証拠もなく不正選挙を言い出して2021年にクーデターを起こします。クーデター後はアウンサンスーチーは裁判で罪人となり収監されています。

ネウィンが就任した1962年からずっと軍事政権が続いています。(2015年〜2021年は民主政権)

今回はここまでにして、7に続きます。

Posted at 2024/05/23 10:55:40 | コメント(1) | トラックバック(0) | ミャンマー | 日記
2024年05月23日 イイね!

私のミャンマー 5


”私のミャンマー 4”からの続きです。

帰国後に3に書いたように理事長には進出するのであればミャンマーと告げました。とは言え、ミャンマーとなると軍事政権国家というのが問題になります。当時の私にはミャンマーについての知識がほとんどありませんでした。

ですので、どういう形で進めるかも案が浮かびませんでした。

当時のA病院は新しい建物を新築中でした。つまり旧建物の備品をリニューアルしますから、旧品が出てきます。そに旧品をミャンマーに寄贈する案が浮上してきました。これについても病院に国外に寄贈した経験もありませんから、私が素人ながら一から始めることになりました。

A病院の顧問弁護士ルートで、今は故人ですが長くインドネシアに関わり、JBIC、JICAにも関係のあるMさんを知りました。そのMさんは在日本ミャンマー大使館(以下ミャンマー大使館)にも顔があり、そのMさんの紹介でミャンマー大使館とも連絡を取るようになっていました。ミャンマー大使館には我々の寄贈計画を華hしていました。何も知らなかった私ですから、日本からミャンマーまでの船代はミャンマー側にもっていただこうと考えて計画でした。結果としてはこれによって時間がかかってしまいました。

1997年は一度訪緬しています。前年に訪緬して少しは人を知った私ですので、その顔ツナギを考えての訪緬だったように覚えています。

宿泊ホテルは、1996年に下見したセドナホテルに。そこで、日航ホテルがヤンゴンにできるとのことを耳にして、日航ホテル関係者に会えないかと奔走し、会うことができました。建設は間組だったように覚えています。間組と言っても、日本人は数人だったとのことでした。まだソフトオープンもしていないホテルでしたが、この翌年から宿泊することになります。

写真が無いと書いてきましたが、少し思い出しました。軍事政権下のミャンマーで不用意に写真を撮ると公安、当局にしょっぴかれる可能性があると考えて、極力撮らないようにしていました。

そんなことで、1997年は顔ツナギの一年でした。

ミャンマーの歴史と軍事政権については次に。

6に続く
Posted at 2024/05/23 10:37:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | ミャンマー | 日記
2024年05月18日 イイね!

私のミャンマー 4


”私のミャンマー 3”からの続きです。

ハノイのホテルはレイクサイドホテルでした。英語名でしたが、中国(台湾かもしれませんが)資本のようで、メインダイは中華でした。

N社のハノイ支店を訪ねました。その時に日本からの視察団が来ていたようで忙しくされていたので、not welcomeを感じていました。ここではハノイの日系企業一覧表をいただきました。ベトナム人の方のアテンドでハノイの会社訪問しました。

ハノイには外国人用の医療機関が多数ありました。ヤンゴンにあったAEAもあり、スイス資本のクリックもありました。AEAはヤンゴンのそれと同じポリシーでMedical Evacuationが可能であるならそうするが、ダメなら国内での治療というものでした。スイス資本のクリニックはそこまでの大掛かりなものでなく外国人医師のいるクリニックということでした。私の立場(日本の医療機関の人間)は話してますから、同業者ということでなかなか立ち回り辛かった覚えです。

企業訪問で記憶に残っているのは、野村が造成していたハイフォン工業団地です。会ったのは女性でした。こういう工業団地にクリニックを作るてのもありかなとこの時に思いました。
またその女性は数日後にここを退職してサイゴンのホテルに就職すると。彼女はもともとホテルで就労したかったようですが、ホテル経験がないとちゃんとしたホテルへの就職はできなとのことで、まずは途上国のちゃんとしたホテルで経験を積んでステップアップする計画だそうでした。なかなか勉強になりました。

アボが埋まらなかった時に、ホテルのフロントのおねーさんに頼みこんでハノイの観光案内を頼みました。市中の亀が御神体みたいな寺に連れてってくれました。彼女から説明(英語)を受けてる時に横から欧米人に割り込んできてその女性に質問します。了見の狭いは私ですから言葉にはしませんでしたが、バカヤローと叫んで!(笑)。

彼女にはお礼として夕食をと考えていました。ソフィテルホテルがハノイにあったのでそこでと思ったのですが、高額と思ったのでしょうか、もう少しリーズナブルなレストランに連れてってくれました。

そんないい思いができたハノイからサイゴンへ飛行機移動です。やはり、ベトナムエアーにて。

サイゴンもN社の日本人K氏にアテンドしていただきました。ヤンゴンのY氏もこのK氏も帝大の工学部卒とのことで、工学部から商社にかあとびっくりしてました。今は商社に理系からの就職っていうのは理解してますがね。

私は帝大ではありませんが、地方国大の工学部卒で良かったなあと当時は思いました(笑)。その後、自分の学科の卒業者名簿見たら、豊通が多かったし、日商岩井もありましたから、たまたま私の学年がなかったんですかね。学科は元々は機織科でその後、紡織科→繊維工学→繊維高分子工学→高分子工学→有機材料工学と変わっていきますが、いわゆる繊維科の時は豊通が多かったんでしょうね。当地には、豊田紡織、豊田自動織機がありますから。

サイゴンにもAEAがあり、デンタルチェアーが3台もありました。他にもハノイと同じように複数の外国人用クリニックが。ハノイよりは数が多かったですね。
この頃のベトナムは米国との手打ちが終わり、まさに離陸していく時だったと思います。サイゴンのAEAを見ると複雑な思いが生まれてきました。

ホテルはエコートリアルでした。3つの中では一番快適なホテルでした。日本食レストランもあり、久しぶりのカツ丼とビールは極楽だったことを今でも覚えています。

ハノイでホテルのおねーさんに良くしてもらったことで図に乗ってホテルのゲストリレーションの日本人のM氏(当然女性)にベトナムについて教えて欲しいから、時間がある時にいっぱい付き合ってくれませんかとオファーしてました。そうしたら、ちゃんと一度一緒にホテルのバーで飲めました。

そこでの会話というか話は今も私の中に残っていています。まあこういう途上国ですから、売春に話にもなります。

M  日本人が私にね日本人がどこに行ったら女を買えるんか?とへっちゃらで聞いてきますよ。
私  えっ、女性のMさんいですか?
M  そう、私が女性ってことはお構いなしですよ。
私  (絶句)
M  そこでね言ってやるんですよ。”あなた自分のパスポート見られてますか?そにはこの人間は日本国民だから帰国ではお守りくださいって書いてありますから、あなたは多分日本に送り返されるだけでしょうが、相手の女性はどうなるかわかりませんよ。当局に引っ張られて帰ってこれなくなったベトナム人女性を多く知ってます。そのお覚悟があるならお好きにどうぞ”と言ってやりますよ。
私  えっ、パスポートにそんなん書いてありますか。部屋に帰って直ぐに見てみます。

まあこんな会話で、あんまり色気のあることはありませんでした(汗)。でも、このことは自分の中ではセンセーションでその後の私の海外での立ち振る舞いには影響がありました。

この3都市訪問はやはり女性運はありました!

サイゴンの最終日にN社のK氏と一杯やりました。サイゴン滞在中によくゴルフしなくていいですかと聞かれていました。この時も聞かれたんで、”私はゴルフは大好きです。日本ではほぼ毎週自分の会員のクラブに行っています。でも職場(病院)の連中はこのミャンマー、ベトナム訪問は理事長命令でもどうせ大したことしてないんやろと思っています。もしゴルフして怪我でもしたら何を言われるか。ゴルフは帰ってから直ぐできますからお気遣いなく。ありがとうございます。”と。

日本への帰国は、ベトナムエアーでバンコクに。そこでJALに乗り換えて名古屋です。ヤンゴンを出る時に腹を壊しましたが、その後は何も無かったように覚えています。

3都市の候補地については、私の結論は出ました。ベトナムはToo Lateです。今から計画してオープンできるまでの時間考えてもすごい出遅れになります。かたや、ミャンマーは国際的に制裁を受けていて、まだ外国資本が動く気配もありません。そう我々にとってのニッチがあると思いました。

1996年の訪緬はこの一回だけでした。

5に続く
Posted at 2024/05/18 08:17:48 | コメント(1) | トラックバック(0) | ミャンマー | 日記

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ロンバードです。 (2017年2月22日にニックネーム変更しました) 前に1988年CX GTI SeriⅡに乗っていました。黒のVISA GTも所有し...
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