23からの続きです。
この年からは、日立製のMRIの寄贈の準備になります。今までの透析器、ベッドのように物をヤンゴン港に荷上げして寄贈先の病院へという比較的楽なことと違って、MRIを入れるシールドルームの建設もありますから設置病院が何処?から始まるので時間がかかりました。
この時点でのミャンマーのMRIの保有台数は1台だけです。ヤンゴンの新ヤンゴン総合病院(以下NYGH)にあるだけです。D会の寄贈予定の日立製MRIは1991年製の0.2teslaでこの時点では約10年落ちの物ですので、ミャンマーの保健省としては病院の設定をいろいろ考えたようです。
しかし、10年落ちですがミャンマーがこの時点で保有しているMRIも1996年製ですからさほどかわるものではありません。ミャンマー側の病院の設定、D会側のシールドルームをどうやって建設するかで半年以上時間がかかってしまいました。 D会側からもその後のメンテも考えると、ヤンゴン市内にして欲しいとのリクエストは出していました。
最終的には、ヤンゴンのサンピア総合病院(以下SGH)に決まりました。シールドルームについては、日本から機材一式を持ち込み、建設のための日本から大工さんも行っていただくことになりました。書くと簡単ですが、資料を見てますと東京のミャンマー大使館の大使に数回お会いして(そのためのアポ取りにFAXは多量)、ミャンマーの保健省の局長、課長への多量のFAXとか送ってます。日本の日立側は東京の日立メディコのエンジニアが担当となり、この2002年はミャンマーへの出張は1回でしたが東京へは多く行っていました。
そんなことで、訪緬出張は2002年の10月になりました。
先ずは保健省のInternational Health Division(以下IHD)のペー課長に会って以下の確認をしました。
(1)Import Licenseの取得時期
(2)サンピア病院のMRI受入基礎工事
(1)について先日FAXにて送ったInvoiceにて、既に申請済みとのことでした。取得時期については、10月中頃とのことであると。
(2)については、Department of Health(以下DOH)に申請してあるので問題ないことと言われたが、その基礎工事が終わらないと輸出できないからはっきりしていただきたいと御願いして。誰が責任者かとの当方の問いに、サンピア病院の院長との返事したでので、後日の訪問時に確認することに。私のの情報では、DOHのDirector General(以下DG)のDr. Wong Maungとなっているので、彼にも後日確認すると申し上げて。
同じ建物内にDept. of Medical PlaningのDGのDr.Kyi Soeさんに挨拶も。5人のDGの中では私が一番フランクに話せる人なので(笑)。
以前の寄贈品である救急車を見ることが出来ました。所属は病院ではなく保健省管轄の事務所のようなところでした。実際そこで何をしてるのかはわかりませんでした。ひょっとすると救急車でなくただのバンとして使っているのではとの心配もありました。
その後2015年くらいにミャンマーの救急医療を調べることになるのですが、その2015年の時点でも救急車の存在は一般市民には認知されてないような状況でしたので、この2002年において救急車は機能していないと言うか必要なかったのかもしれません。
ここでやっと写真が貼れます(笑)。
保健省のマークが。
ここで今後何回となく登場するであろうMr. Tauk Tun(以下ミッキーさん)にヤンゴンで再会になります。彼とは日本で一度お会いしていました。こ時点では彼は日立のメンテ会社を経営していてエンジニアの立ち位置でした。そのため、日立の柏工場にて研修中だったので、東京で食事をしました。そのきっかけを作っていただいたのは、今も親交がある当時は日立メディコのNさんです。
ミッキーさんは、前は所謂近衛兵であったとのことで、ミッキーさんの三菱デリカに乗せてもらって市中を走っていると、市中の至るところにいる兵士からは敬礼を受けます。最初はもう驚きで(笑)。まあおいおい書いていきますが、顔が広いんです。
その彼はすでにMRI設置予定のSGHを見てそれなりのプランを立てたようでした。
サンピア総合病院(以下SGH)へ。
院長のDr. Ja Naw(ジャーノー)さんに面会して基礎工事の進捗を確認してから、MRIの設置場所を見ました。D会の理事長の意見の今後の機材の更新ができるように入口の開口を大きくしておけとのことが頭にありました。オペレーション室に予定している所からの搬入は無理で、廊下に患者の出入り口を作るしか無いようでした。これはミッキーさんの助言です。
患者入口予定の廊下です。
シールド室予定の部屋
オペレーション室予定の部屋
こんな所を経て搬入になる予定
SGHの後にNYGHへ。
ここでは、既設の日立製のMRIを見ました。患者はシールド室への廊下を経てシールド室に入りますから部外者が入る危険性は低くなります。
予算の違いか、建物のレイアウトの悪さかわかりませんが、NYGHの場合、機材の搬入は壁を壊して行われたようで、壁を壊した跡がありました。
そしてヤンゴン総合病院(以下YGH)へ。
ここで院長と、透析担当のチダ医師と面会です。
D会の寄贈の透析器は問題なく稼働していましたが、前からYGHにあったB.Brown製の透析器が動いていませんでした。院長からは部品の供給が無いとのことでしたが、ミッキーさん情報ではB.Brownがあえて部品を出さず買い替えを促す作戦ではとのことでした。まあ代理店が考えるんでしょうね。
IHDのペー課長から、”大臣にあう?”との連絡があり、IHDに行きました。でも会議に合間にとのことで2時間くらい待ちました(笑)。お会いした大臣からは”D会のことはよく覚えているよ。いろいろありがとう!”と労い(?)のお言葉をいただきました。
ミッキーさんはM商事の仕事をしていて、M商事が落札した日本のODAにて新設された救急医療関連設備の仕事にも関係があります。なので、ミッキーさんからM商事のHさんを紹介してもらいました。これが私がM商事さんとの関係の始まりでした。私が最終的に定年退職してミャンマーとの関わりが無くなるまで M商事さんには担当の方がお代わりになってもお世話になりました。
ちょうどそれくらいにN社は合併があり、担当者へのD会のことの引き継ぎが無く、私が行きにくくなっていたこともありますが(汗)。
でも、M商事の情報収集力にはびっくりでした。ミッキーさんはじめ、ローカルスタッフの動きが違いますね。約5年ほどN社にはお世話になりましたが、どうしても比べてしまいますが。
日本の川口外相が訪緬して、日本商工会の方々と会っていたようです。スーチー女史の軟禁が続いていて、経済の低迷は続いていました。
ミッキーさんは後に大臣になるProf. Kyaw Myint(この時点では教育局長)とも親しく、ミッキーさんからは、保健省のD会のイメージは、透析器の寄贈で最初の機材が調子が悪く、その後新品で埋め合わせをしたことによって今までの NGO、NPOとは違うとなったようだとのことでした。まあお金がかかったことですから、良い方に転んでもらうのは大歓迎です!
最後に1998年から宿泊しているHotel Nikko Royal Lake Yangon(日航ホテル)からカンドージ湖の写真と、ミャンマー人の信仰の中心であり、誇りであり心のよりどころであるシェダゴンパゴダの写真を。
これで、2002年は終了です。
Posted at 2025/02/12 11:10:39 | |
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