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ロンバードのブログ一覧

2025年02月20日 イイね!

スバル インプレッサ WRX


ミニカーの続きです。

CR-Xのポチ後、今度はインプレッサWRXを見てしまいました。

この車(実車)を購入したのは、スパイクタイヤ(スタッドタイヤ)が禁止になって、さあこれからのスキーはどうしようって時でした。

この頃は、主たるスキー場は八方だったので、大糸沿線ならスタッドレスの冬タイヤでもFWDで問題なかったです。でも志賀を上るとなるとチェーンを巻かねばなりません。ちなみにその冬タイヤはミシュランの特許がまだあったギザギザサイプの物からアイス・コンパウンドなる言葉がでたマキシ・アイスとかを使いました。
まだ、長野オリンピック前で、高速も長野まで延びていない時期でしたので、志賀はたまにでしたが。

丁度、家業を止めた時で、社用車であったでかいアウディ100ターボをどうするかという時でもあったし、ランサーターボが4WDで出ていたのでランサーターボを購入しようと販売店へ。するとランサーターボは数量限定車であったので時遅しで購入できませんでした。

CGTVでランサーターボとインプレッサWRXの比較テストを見ていたので、スバルでもいいかと販売店へ。インプレッサWRX(以下WRX)はランサーターボと同じ4WDでパワーも同じようなものだったと思います。そしてWRXは限定車でなくカタログモデルでした。当時のスバルの販売量を考えたら、あえて数量限定にする必要もなかったんでしょうね。

結局、このWRXを買うことになりました。初めての200馬力超えです。これは初代のWRX(GC8)でその後にSTI仕様が出てくることになります。

このWRXは本当に頑張ってくれました。5年で17万キロくらい走りました。WRXが我が家に来た時には高速道も長野まで延伸して、我が家のメインは八方から志賀に代わった時でもありましたし。

志賀の上りも何も問題なく。私のWRXがきっかけで、大学時代のスキー仲間も段々と4WDに変え始めました。

当時よく聞かれたのは、”◯△ちゃん、なんでスバルなの?”と。そう、愛知県でのスバルの認知度はほぼゼロだったと思います。でも、このWRXが私の今までのスバルへの思い込みをほぼ100%変えてくれました!
その後、レガシィBEを20年、22万キロ乗って今のWRX S4に繋がります。シトロエンの悪女の深情けにハマったように、国産はスバル一択になりました(汗)。

スバルの名誉のために書きますが、スバルは悪女ではありません。しいて言うなら、講義にはちゃんと行っていて私はあんまり話をしたことがない奴だけど、試験時には頼れて酒飲むといい奴じゃんと気がついた友人っていうところでしょうか(笑)。

でも、シトロエンは悪女です!!!

販売されてたミニカーでのインプレッサWRXは、私が乗ったWRX以降のSTI仕様であり、WRCで大活躍した555の青いモデルがほとんどでした。今回、私が乗った素のWRXを見つけたので、やはりすぐにポチに(笑)。





所定のガレージに。
奥にも見えますが、WRC仕様の青い555のミニカーに囲まれて、素のWRXは一番前に。



なんかミニカーに火がついてしまったような(笑)。
Posted at 2025/02/22 09:46:44 | コメント(0) | トラックバック(0) | ミニカー | 日記
2025年02月20日 イイね!

HONDA バラード・スポーツ CR-X


どういう訳かFBのAI(?)に見越されたか、やたら HONDA バラードスポーツCR-X(以下CR-X)のミニカーの販売(Amazon、楽天etc)が目につきはじめました。

それはカミさんの嫁入り道具(?)として義父に懇願した車でした(汗)。

CR-Xは発売と同時に、無限パーツで着飾った鈴鹿サーキットのマーシャルカーにもなっていました。この頃はまだツインカムでなくシングルカムです。

我が家に来たCR-Xは標準のままで、車体の下半分はグレーの塗装でした。

我が家に来た後すぐにその下半分はマーシャルカーのように白にして、でかいCR-X PROのデカールを貼り、モールも無限のオレンジに替えました。(写真の時はまだモールは純正のままだったかも)



その後、無限パーツのインテークマニホールド(タコ足)、スポーツマフラーに換装して、ホイールは無限ではないが白いホールに替えました。

CG誌で知った倉敷アイビースクエアにも行って、CG誌と同じような写真を撮って。





でもこの頃はまだインターネットも無く、予約はクラボー(倉敷紡績)の大阪支店に電話したような。なので、このアイビースクエアがクラボーの工場跡とこの時に知りました。ノコギリ屋根の風呂とかあったような。

当時の国産車に改造パーツなるものはほぼ存在していませんでしいた。ゴルフにはエッティンガー、ANSERとかあったんですがね。でも、このCR-Xには無限が色々出していて、やっと輸入車のようなことができるってルンルンで(笑)。

CR-Xには一応後席があり、2シーターではなかったですが、その後席には誰が座れるんか?という極狭でした。でもこの座面の窪み(多分頭部のクリアランスを確保するために座面を下げた)に息子のクーファンはドンピシャでハマり、重宝していました。

その後、ゴルフIがゴルフIIになってGTIが日本でやっと発売されて、そのGTIを購入しようとしましたが資金不足で思いは果たせず、プジョー205GTIの購入になり、CR-Xは我が家での役目を終え、去っていきました。その後の私が悪女の深情けにハマったのはご存じと思います(汗)。

そのCR-Xのマーシャルカーバージョンのミニカーがトミカの高級バージョン(?)にあったので、ついついポチを(笑)。このマーシャルカーと私のCR-Xの違いは、ブリスターフェンダー、リア・スポイラーとホイールだけです。流石にブリスターフェンダーには手が出せませんでした。モールはマーシャルカーは赤ですが、私のCR-Xは無限のオレンジにしてありました。







撮影後は、所定のガレージに収まってます。この車の奥のCR-Xは我が家に来た時の無改造のCR-Xです(笑)。



大満足!です。
Posted at 2025/02/22 09:17:22 | コメント(1) | トラックバック(0) | ミニカー | 日記
2025年02月12日 イイね!

私のミャンマー 24 (2002年)

23からの続きです。

この年からは、日立製のMRIの寄贈の準備になります。今までの透析器、ベッドのように物をヤンゴン港に荷上げして寄贈先の病院へという比較的楽なことと違って、MRIを入れるシールドルームの建設もありますから設置病院が何処?から始まるので時間がかかりました。

この時点でのミャンマーのMRIの保有台数は1台だけです。ヤンゴンの新ヤンゴン総合病院(以下NYGH)にあるだけです。D会の寄贈予定の日立製MRIは1991年製の0.2teslaでこの時点では約10年落ちの物ですので、ミャンマーの保健省としては病院の設定をいろいろ考えたようです。
しかし、10年落ちですがミャンマーがこの時点で保有しているMRIも1996年製ですからさほどかわるものではありません。ミャンマー側の病院の設定、D会側のシールドルームをどうやって建設するかで半年以上時間がかかってしまいました。 D会側からもその後のメンテも考えると、ヤンゴン市内にして欲しいとのリクエストは出していました。

最終的には、ヤンゴンのサンピア総合病院(以下SGH)に決まりました。シールドルームについては、日本から機材一式を持ち込み、建設のための日本から大工さんも行っていただくことになりました。書くと簡単ですが、資料を見てますと東京のミャンマー大使館の大使に数回お会いして(そのためのアポ取りにFAXは多量)、ミャンマーの保健省の局長、課長への多量のFAXとか送ってます。日本の日立側は東京の日立メディコのエンジニアが担当となり、この2002年はミャンマーへの出張は1回でしたが東京へは多く行っていました。

そんなことで、訪緬出張は2002年の10月になりました。

先ずは保健省のInternational Health Division(以下IHD)のペー課長に会って以下の確認をしました。

(1)Import Licenseの取得時期
(2)サンピア病院のMRI受入基礎工事
 
(1)について先日FAXにて送ったInvoiceにて、既に申請済みとのことでした。取得時期については、10月中頃とのことであると。
 
(2)については、Department of Health(以下DOH)に申請してあるので問題ないことと言われたが、その基礎工事が終わらないと輸出できないからはっきりしていただきたいと御願いして。誰が責任者かとの当方の問いに、サンピア病院の院長との返事したでので、後日の訪問時に確認することに。私のの情報では、DOHのDirector General(以下DG)のDr. Wong Maungとなっているので、彼にも後日確認すると申し上げて。

同じ建物内にDept. of Medical PlaningのDGのDr.Kyi Soeさんに挨拶も。5人のDGの中では私が一番フランクに話せる人なので(笑)。

以前の寄贈品である救急車を見ることが出来ました。所属は病院ではなく保健省管轄の事務所のようなところでした。実際そこで何をしてるのかはわかりませんでした。ひょっとすると救急車でなくただのバンとして使っているのではとの心配もありました。

その後2015年くらいにミャンマーの救急医療を調べることになるのですが、その2015年の時点でも救急車の存在は一般市民には認知されてないような状況でしたので、この2002年において救急車は機能していないと言うか必要なかったのかもしれません。

ここでやっと写真が貼れます(笑)。





保健省のマークが。



ここで今後何回となく登場するであろうMr. Tauk Tun(以下ミッキーさん)にヤンゴンで再会になります。彼とは日本で一度お会いしていました。こ時点では彼は日立のメンテ会社を経営していてエンジニアの立ち位置でした。そのため、日立の柏工場にて研修中だったので、東京で食事をしました。そのきっかけを作っていただいたのは、今も親交がある当時は日立メディコのNさんです。

ミッキーさんは、前は所謂近衛兵であったとのことで、ミッキーさんの三菱デリカに乗せてもらって市中を走っていると、市中の至るところにいる兵士からは敬礼を受けます。最初はもう驚きで(笑)。まあおいおい書いていきますが、顔が広いんです。

その彼はすでにMRI設置予定のSGHを見てそれなりのプランを立てたようでした。

サンピア総合病院(以下SGH)へ。

院長のDr. Ja Naw(ジャーノー)さんに面会して基礎工事の進捗を確認してから、MRIの設置場所を見ました。D会の理事長の意見の今後の機材の更新ができるように入口の開口を大きくしておけとのことが頭にありました。オペレーション室に予定している所からの搬入は無理で、廊下に患者の出入り口を作るしか無いようでした。これはミッキーさんの助言です。

患者入口予定の廊下です。



シールド室予定の部屋



オペレーション室予定の部屋



こんな所を経て搬入になる予定



SGHの後にNYGHへ。

ここでは、既設の日立製のMRIを見ました。患者はシールド室への廊下を経てシールド室に入りますから部外者が入る危険性は低くなります。





予算の違いか、建物のレイアウトの悪さかわかりませんが、NYGHの場合、機材の搬入は壁を壊して行われたようで、壁を壊した跡がありました。

そしてヤンゴン総合病院(以下YGH)へ。

ここで院長と、透析担当のチダ医師と面会です。





D会の寄贈の透析器は問題なく稼働していましたが、前からYGHにあったB.Brown製の透析器が動いていませんでした。院長からは部品の供給が無いとのことでしたが、ミッキーさん情報ではB.Brownがあえて部品を出さず買い替えを促す作戦ではとのことでした。まあ代理店が考えるんでしょうね。

IHDのペー課長から、”大臣にあう?”との連絡があり、IHDに行きました。でも会議に合間にとのことで2時間くらい待ちました(笑)。お会いした大臣からは”D会のことはよく覚えているよ。いろいろありがとう!”と労い(?)のお言葉をいただきました。

ミッキーさんはM商事の仕事をしていて、M商事が落札した日本のODAにて新設された救急医療関連設備の仕事にも関係があります。なので、ミッキーさんからM商事のHさんを紹介してもらいました。これが私がM商事さんとの関係の始まりでした。私が最終的に定年退職してミャンマーとの関わりが無くなるまで M商事さんには担当の方がお代わりになってもお世話になりました。

ちょうどそれくらいにN社は合併があり、担当者へのD会のことの引き継ぎが無く、私が行きにくくなっていたこともありますが(汗)。

でも、M商事の情報収集力にはびっくりでした。ミッキーさんはじめ、ローカルスタッフの動きが違いますね。約5年ほどN社にはお世話になりましたが、どうしても比べてしまいますが。

日本の川口外相が訪緬して、日本商工会の方々と会っていたようです。スーチー女史の軟禁が続いていて、経済の低迷は続いていました。

ミッキーさんは後に大臣になるProf. Kyaw Myint(この時点では教育局長)とも親しく、ミッキーさんからは、保健省のD会のイメージは、透析器の寄贈で最初の機材が調子が悪く、その後新品で埋め合わせをしたことによって今までの NGO、NPOとは違うとなったようだとのことでした。まあお金がかかったことですから、良い方に転んでもらうのは大歓迎です!

最後に1998年から宿泊しているHotel Nikko Royal Lake Yangon(日航ホテル)からカンドージ湖の写真と、ミャンマー人の信仰の中心であり、誇りであり心のよりどころであるシェダゴンパゴダの写真を。





これで、2002年は終了です。
Posted at 2025/02/12 11:10:39 | コメント(0) | トラックバック(0) | ミャンマー | ニュース
2025年02月10日 イイね!

私のミャンマー 23 (2001年)


22からの続きです。

22を書いてから、愛車のシトロエンC5関連のイベントがあったり、四国、京都に行ったり、そして冬になってスキーで時間が空いてしまいました(汗)。少し時間が経つとまた記憶が曖昧になってしまい、記憶の繋ぎ合わせに時間がかかっております。

2001年の2回目の訪緬出張の続きになります。

MRIの寄贈が持ち上がり、関係のある部署との接点が出てきます。日本のODAにて建設されたNew Yangon General Hospitalを訪問します。ここにはこの時点でミャンマーで一台だけのMRIがあります。これは1996年に導入されたものです。ちなみにCTは1995年に島津製作所の物が導入されています。

New Yangon General Hospitalについて少しばかり書いておきます。
1984年に日本の無償資金協力にて建設されました。そのためか現地では正式名称のこのNew Yangon General HospitalよりJICA Hospitalの方が通りが良かったです。
私は何回も訪問することになるのですが、私の同僚とか関係者を連れて行きました。彼ら皆 ”日本の病院みたい”といいます。確かに日本の資金で建設されていますが、設計も日本のコンサルが入りますし、日本の医師も関わっています。当時の京都大学 医学部教授の濱島義博先生が中心となってご尽力されたようです。このJICAプロジェクトでは、New Yangon General Hospitalの建設だけでなく、医学生物学研究所(現在の保健省医学研究局)、ヤンゴン看護学院(現在のヤンゴン看護大学)も一緒に建設され、それらにも濱島先生は関わられたようです。そしてここにもう一つのストーリーが生まれました。今でもミャンマーに医療支援されている岡田茂元(元岡山大学医学部教授、元医学部部長)は岡山大学医学部を卒業された後、京都大学医学部に在籍されていてこのJICAプロジェクトに参加されていたようです。それがきっかけで今でも医療支援をされたとのことです。私は個人的にこの岡田先生と懇意にしていただいていますので、この歴史を教えていただきました。以前はネットでNew Yangon General Hospitalを検索すればかなりの情報が入ったのですが今はさほど出てきません。この濱島先生のことは聞いていたので、このブログを書くにあたりネットで探しましたが、出てきませんでした。なので、岡田先生にメールで確認した次第です。
これだけの大プロジェクトでミャンマーには大きな貢献をしているのに、それが一般に伝わっていないのは勿体無いですね。

New Yangon General Hospitalの成り立ちについてはここくらいにします。

このNew Yangon General Hospital(以下NYGH)はYangon General Hospital(以下YGH)と一体になった運営をされています。ともにヤンゴン第一医科大学(以下UM1)の研修病院になっています。院長はそれぞれにいます。

上述のようにJICA案件ですから、それなりの機材(ほぼ日本製)が投入されていますが、私が最初に訪れた2001年は竣工から15年以上経っていますから、かなりの機材が壊れていて使えない状況でした。CT、MRIはまだ動いていたような覚えですが、一般のレントゲンは数台は故障していました。

これらの放置が問題で、どうして直さないか?と疑問が出ますが、やはりお金です。公立病院は保健省の管轄ですが、保健省にはお金がないようで病院を運営するに手一杯のようでした。医療医は原則無料ですが、注射、薬、検査は実費がかかります。日本のような公的医療保険はありませんから、物価が安くても所得に対しては高額になります。患者からの入る診療報酬だけで公立病院は運営は厳しいと思います。よって、修理費が捻出できず壊れたままで放置されています。

東京の大使の紹介で、軍の医師のThan Aung 中佐にお会い出来ました。

ポジションは、軍病院の事務方の2番目のようでした。。その上司(1番目)が外遊中で軍病院の見学の許可を得れないため見学は出来ませんでした。東京の大使は、このThan Aung中佐の前任者ということらしいです。その紹介であるのでえらく恐縮していらっしゃいました。次回の訪緬時には必ずアレンジしますと言っていただきました。

氏自身も医者であるので、内戦鎮圧の前線経験をおもちで、私にして初めて聞く軍事体験で非常にびっくりしました。

上述のように、医学大学は軍事医学大学と別のようで、当然卒業後の進路も普通病院と軍病院とに別れるようである。そのあたりのシステムについても説明していただいた。
氏は現在は中佐ですが、上司の退任につき昇進されるようで、位も准将になられるようでした。

ヤンゴンの日本大使館で、厚生担当の二頭書記官とお会いして、今D会が考えているMRIの寄贈について相談しました。私の方からは、大使館の権限で決定できる草の根無償資金協力のスキームが使えないかの打診です。

書記官からは、受益者に公平性があるかが重要であり、少数のまたは高額所得者への受益のものは否認されるようであると言われました。概ね、医療機材では、レントゲンはOKで、CT, MRIは難しそうでした。

大使館への申請は、現地の施設がすることになるとのこと。ここで問題になるのが監督官庁の考え方です。表面上は施設からの申請ですが、それをコントロールしているのは監督官庁です。D会の関係先は保健省ですので、保健省の草の根無償申請のプライオリティが何かを知っておかないと、我々の考える寄贈がそれの邪魔をすることになるからです。つまり、大使館—保健省で年間の概算ができているはずなので、それに割り込まないようにしなくてはいけない。よって、草の根無償資金協力を使うには次年度予算を考えた方がよさそうであるとなります。

また、別の援助金としてNGO支援室の準備金も考慮すべきですが、これは申請にいろいろ書類を集めなければならないので、時間がかかります。

外務省の資金援助プログラムを使うには、保健省と綿密な打ち合わせが必要だというのが今回現地大使館との話し合いで分かったことであり、それにはかなりの回数の訪緬が必要になりそうです。

最後に書記官とのぶっちゃけの話では、D会の考える寄贈の時間的制約の中では草の根無償の利用は無理ということでした。
まあ、それを使う前提の寄贈計画ではないですからね。

この頃からは、訪緬中に頻繁に訪問しているミャンマー・ユタニの小丸社長には、今回Lt. Col Than Aungにお会いしたこと報告しました。氏も彼とは親交があるようである。ミャンマー・ユタニの販売先に軍病院も含まれるとのことでした。氏に保健省の商売と、軍への商売の違いについて聞いたところ、軍の方は必要な時に入札し、保健省は年度始めに一年分を入札するとのことであった。そして、軍の方が早く決まるとことでした。

今回の訪緬出張での感じたことは、以下の通りです。

小泉首相とタン・シェ議長の会談がブルネイであったが、何も変わってないと言うのが前述の日本大使館の書記官のコメントである。しかし、そのASEAN+3会談からタン・シェ議長が帰国してから、第三書記と数人の大臣の退職があった。シンガポールが今一番ミャンマーに近いが、そのシンガポールの情報により、その数人が解雇されたというのが通説のようである。

昨年にヘリコプター事故で亡くなった第二書記とこの第三書記は、マン・エー副議長派であることから、タン・シェ議長—キン・ニュン第一書記派の勢力拡大工作との見方もあるようである。

また、最近の政治犯の釈放があるので、NLD本部周辺の軍人、警察官の人数も少ないよう思う。また、スー・チー女子の家の前の道路が、最近は通行出きるようである。従来の遮断機は未だにあるが、そこに行くとそれを上げてくれて通行できるそうである。ただし、停車は出来ないようであるが。私としては、危険なため通行していない。

草の根無償資金協力に加え、一般無償資金協力の久しぶりの提供が行われ、援助について加速したかにも見えるが、本筋は変わって無いとのことである。アメリカに対しては、今までとおりの日本のスタンスであると説明しているようである。とは言え、何も無かった数年前に比したら大きな違いであるので、このまま進むことを期待する。

24に続く
Posted at 2025/02/10 09:10:41 | コメント(0) | トラックバック(0) | ミャンマー | 日記
2025年02月02日 イイね!

24-25 スキーシーズン 4回目


前回は天気の心配はなかったのですが、今回は今季最高にして最長寒波の始まりに当たってしまいました。ビジネスホテルの良いところであるキャンセルのしやすさで、2泊を1泊にポチって変更です。

前回と同様に日曜日の早朝に出発で、5時間30分くらいで長野手前の西友に。この日もランチ用の寿司を買おうとするのですが、折りしも節分ドンピシャで寿司売り場は恵方巻きだけ。なんてことすんじゃとぼやきながら、寿司諦めてロースカツ重を購入。

ホテルの駐車場はながの東急百貨店のそれを間借りしています。前回は日曜日でもすんなり入れたのですが、この日はバレンタイン、節分(恵方巻き)、北海道物産展とかち合ったようで入るのに少し時間がかかりました。

ランチしながらテレビで大分別府マラソンを見て若林くんの応援をして。

夕食前にながの東急百貨店の酒売り場に。まだ真澄のうす濁りがでていませんでした。しゃあなく何かないかと探していると幻舞の白ラベル(普通の醸造酒)がありましたので、幻舞ならある時に買っておこうと。



夕食はいつもの居酒屋さんの支店で、いつもの夕食です。

お通しの冷奴です。



この日もカツオがあったので刺身で食べて。



ビールで始めましたが、カツオの時は前も飲みましたが、和田龍の生酒で。美味しかったです!



セイロ蒸しです。



〆はこれもいつのもの塩焼きそばで。作り手の違いの味の違いを楽しんでです。



少し前に惨事があった長野駅をパシリと。



翌日は戸隠へ。
天気予報は曇りになっていましたが、私は陽がさすと思っていましたが、着くとなんとガスが。下のシルバー、チャンピオンはかかっていませんでしたが、そこから上はダメでした。

この日の板です。



メノウはまだ先は見えたのでそれなりに走れましたが、お仙水は走りきれませんでした(汗)。

チャンピオンでは全く下に向ず情けない滑りしてました。もう一本で片ターンは少し下向けてんですがね。シルバーは今の私ならこんなもんかってところでした(笑)。

板片付けて着替えていつものそば屋さんへ。前回のこともありちと嫌な感じだったんですが、的中です。
害国人(たぶん中国人)が数組並んでます。

幸い座れましたのでやれやれです。



鬼無里経由で小川村に向かいます。この時は雲はとれて陽が差していましたので、戸隠連山をパシリして。



数日前に朝日村にあるあさひプライムスキー場を知ったので、ほぼ帰り道ですから寄ってみました。



下のビギナーバーンです。



聞くと村営でなく民間の運営のようです。リフト2本のスキー場で、中級バーンは上の1本だけ。距離も無さそうですからこのスキー場受難の時代に生きていけるのかと不思議に思いました。平日ですが、駐車場には20台は車がありました。
松本、塩尻の天気連動の場所ですので、長野の天気とは違います。長野北部が雪でボコボコの時にここに一度は来ても良いかなって思いましたが、1時間飽きずにもつかは不安です(笑)。

ここに寄ったので、一宮には30分遅れで到着です。19号の木曽福島は雪でそこからは雨が降り始め、一宮も雨でした。いつものようにコイン洗車するか迷いましたが、下回りを洗いたかったのでコイン洗車に入ってからの帰宅になりました。
Posted at 2025/02/07 11:56:13 | コメント(0) | トラックバック(0) | スキー | 日記

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「[整備] #C5セダン 燃料フィルター交換 4回目 https://minkara.carview.co.jp/userid/1377780/car/2453316/8206303/note.aspx
何シテル?   04/28 08:16
ロンバードです。 (2017年2月22日にニックネーム変更しました) 前に1988年CX GTI SeriⅡに乗っていました。黒のVISA GTも所有し...
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