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2014年03月02日

史跡巡りポタリング

今日は雨予報から一転して晴れたのですが午前中は路面が濡れていたので路面が乾くのを待って午後から久し振りに近場の史跡巡りへ出かけました。
まずは自宅近くにある特攻第百二十一震洋隊梶木基地跡です。 
 

ここ、梶木の向ケ浜の地は、太平洋戦争が風雲急を告げる昭和二十年六月、一死もって祖国の危急を救うべく、海軍の特攻兵器震洋艇二十五隻を擁し、部隊長藤岡宏太中尉以下百八十八名の隊員が、細島基地から転進、地元の熱誠あふれる協力と理解のもとに新たに基地を設営し、神社境内周辺に艇を秘匿し、日夜訓練に精進し出撃待機をした、第百二十一震洋特別攻撃隊の戦跡である。 とあります。


いつもの海岸へ移動して


南側の海岸を眺めると・・・あの何処かに震洋の格納庫が1ケ所だけ現存しているそうです。
 

松林のシングルを走って
 

隣町の門川町へ。ここには西南戦争の戦地跡地(薩軍本陣跡)があります。
 

次は画像中央に見える山の山頂へ向かいますが何故山頂に・・・?
 

それは登ってからのお楽しみで滝のような汗を流しながらヘコヘコと激坂を上って行きますが何故か頭の中で流れるのは同期の櫻でも海ゆかばでもなくコレ(汗
歌詞のサビの部分で,そうなのぉ~?とか、まるで昭和の壇蜜みたい(爆
なんて余計なツッコミをしながら上って行ったら・・・
 

あっという間にお馴染みの山頂にあるマジンガーZの頭のような展望所へ到着。ここは第2次世界大戦中に、日向灘から侵入してくるアメリカ軍の爆撃機や艦船の襲来を監視するために、この山頂に監視所が設けられていました。山頂中腹には、海側からの攻撃に備えて、反対側にも避難出来るよう、両方向に貫通した防空壕が設けられていたそうです。
 

苦労して登って来たご褒美?の360度パノラマな絶景を眺めた後は少し下ってみると・・・
 

次の目的地に到着です。
 

私も最近まで知らなかったのですがこの遠見山には日向灘の空中戦で犠牲となったパイロットの慰霊碑がありまして。
慰霊碑の名は「太平洋戦争日向灘空域戦没者鎮魂碑」
「昭和52年秋、門川町沖合から飛行機のエンジン1基が引き揚げられたことを機に、この空域での戦没者の供養を行い、彼らの霊を慰めるため、門川町の有志と多くの協力者によって、昭和53年12月に鎮魂碑が建立された」
そうです。このエンジンは紫電改のもので、搭乗者の安否は不明との事で・・・


裏の碑文には、こう刻まれています。

太平洋戦争末期 昭和二十年はじめから終戦の日まで ここ日向灘から豊後水道に至る海域は激戦場となり
敵味方多くの飛行機が墜ち 搭乗者たちがかれらの祖国に殉じた戦後三十二年目の秋 
門川町沖合いの海底から引き揚げられた一個のエンジンは 
未だその海底のそちこちに眠り続ける戦死者達の無言の呼びかけであっただろうか
これを機に三十三回忌の供養を行ない若くして逝ったかれらの霊を慰めるべく
門川町の有志と多くの協力者によってこの碑が建てられた
碑銘はこの空域で戦死した一人 鴛渕孝海軍少佐の旧部下であり義弟でもある
航空自衛隊航空総隊司令官山田良市空将の筆によるものである

昭和五十三年十二月十四日  碇義朗

ん?何度も出て来る門川町沖合いの海底から引き揚げられた一個のエンジンって・・・
偶然にも
この時に鹿屋の海上自衛隊航空基地資料館で見たエンジンの事だったんですね~旅と地元の史跡が繋がった瞬間でした(驚
 

その後はせっかくなので展望所下にある絶景林道で
 

プチ高速ダウンヒルを楽しみまして
 

次の目的地へ向かいます。
 

遠見山を延岡市方面へ下った所(赤水)にある第5特攻戦隊第35突撃隊第48及び第116震洋部隊の格納壕で
 

再現された震洋特攻艇実物大復元艇ですが残念ながらビニールシートが被せられておりました。
 

震洋のスペックですがエンジンはトヨタ製だったんですね(驚
 

こんな静かな漁師町に突撃艇の部隊が実在していたのですね・・・
 

格納壕その2と
 

その3です。
 

結構奥深くまで掘ってありました。
 

対岸から格納壕を望む。出し入れは潮の干満を利用してたのでしょうね。
 

次の目的地へ向かう途中には不動産と化した親父の船が浮かんでます(汗
 

一気に日向市まで移動してきまして次の目的地はこの激坂を上ってみると・・・
 

第5特攻戦隊第35突撃隊第08回天隊基地の面影を残す看板がありました。
 

ここ日向市にも
 

人間魚雷回天の基地があったのですね。噂では戦後回天は爆薬を取り除かないまま細島港沖に沈められているとか?
 

残念ながら回天の格納壕は残っていないそうですが大体の場所は想像できますね。
 (画像は関係ありません)
 

次の目的地は国土地理院細島検潮場です。現存する日本最古の験潮場で設置されたのは明治25年ですが何と未だに現役なんだそうです。
 

元々は日本陸軍の施設でしたのでその証拠に、入口の上には陸軍の星マークが付いています。
 

ここから対岸を見ると丁度このあたりに人間魚雷回天の格納壕があったのかもしれないですね・・・
 

次の目的地は
 

黒田の家臣の近くにある
 

特攻121震洋隊細島基地跡です。
 

先ほどの回天といい絵に出てくる戦艦は大和でしょうか?
 

震洋隊の歌
 

2つある格納壕の内の1つは崩落してしまっているのですが
 

その奥にある格納壕は未だにその姿を見る事ができるのです。
 

ここから出撃するつもりだったんですね・・・ですが幸いなことに間もなく終戦を迎えたお陰で宮崎県北の特攻基地から震洋や回天が出撃する事はありませんでした。
 

丁度干潮でしたので次は黒田の家臣へ
 

地元では釣りのメッカですがこの島には三名の攘夷志士が眠っておりまして
 

文久2年の寺田屋事件では、同じ薩摩藩士が攘夷派と鎮圧側に分れて斬り合う惨事となりました。
 

いっぽう、寺田屋の二階にいた浪士たちは薩摩藩士の説得に応じて投降します。
 

しかし、脱藩者の田中河内介・磋磨介親子、海賀宮門、中村主計、千葉郁太郎だけはどこの藩も引き取りを拒否。
 

薩摩行きを希望した五名ですが、攘夷派の扱いに困った薩摩藩では彼等の抹殺を図ります。
 

まず、瀬戸内海を航行中の船内で田中父子が殺害されました。
 

続いて細島へ到着した三名も、古島で斬殺されます。三名の遺体を発見したのが細島在住の黒木庄八さんで哀れに思った彼は処刑された志士たちの墓を古島に建立し、現在に至るまで黒木家の方々がその世話を続けています。
 

次は細島みなと資料館です。細島みなと資料館は、市指定文化財「高鍋屋旅館及び付属屋」を改修したもので、木造三階建ての本館は大正10年(1921年)の建築です。大正~昭和初期の旅館の風情を残すように整備されています。

客室は6室あり、昭和57年まで営業していました。付属屋は平屋建てで、台所(釜屋)、厠、風呂場、脱衣所があります。また特徴的な正面玄関は、三輪氏の紋の入った軒瓦や桃の形をした意匠瓦で飾られた「唐破風」と呼ばれる屋根が”大正デモクラシー”とも呼ばれた当時の雰囲気を伝えています。有料ですが市の職員が丁寧に案内してくれますのでお勧めですよ♪
 

次は西南の役細島官軍墓地です。


明治10年(1877)の西南戦争に従軍した迫田鉄五郎少佐以下319名の官軍兵士が葬られており
 

彼らは宮崎県内の各地で戦病死した者たちで墓碑銘や当時の記録によれば関東・中部・東北地方の出身者が多く以前、旧陸軍省が墓石と敷地を整備してきたことから官修墳墓とも呼ばれているそうです。
 

これが坂本竜馬とも交流があり幼少期には西郷隆盛の膝の上で遊んだほどだったが西南戦争勃発により悩み選んだ結果官軍につく事で身内と戦う事になってしまった迫田鉄五郎少佐の墓です。先にある細島みなと資料館には迫田鉄五郎少佐の肖像画(写真?)と坂本竜馬から贈られたという拳銃(信憑性は100%ではありませんが)が展示されてます。興味のある方はこちらをどうぞ。
 

次は有栖川征討総督宮殿下御本営跡です。明治10年(1877)の西南戦争は、市内にも戦火をもたらした。当時の細島は、官軍の拠点となっており、軍艦が入港して、兵士を戦場に送りこんでいた。
 同年7月14日から、8月20日にかけては、江戸時代からの伝統をもつ老舗「摂津屋」に官軍の征討本営が置かれ、旧四親王家のひとつであった有栖川宮熾仁親王が滞在されている。
 摂津屋は、当時の面影を伝える重厚な厨子二階・平入の建物で、商業関係の古文書を数多く残しており、親王の揮毫による「凛冽萬古存」の扁額や、愛用の高下駄、「征討本営」の看板なども保存しているそうです。
 

次は関本勘兵衛家住宅です。
 

関本家は江戸時代から続く商家であり、屋号を「苫屋」という。間口に対して奥行の長い地割に特徴がみられ、「町屋」の典型的な形態を今なお保っている。明治12年(1879)の建築であるが、平面、構造、デザインに江戸時代の古い様式、手法を継承しており、近世町屋の特徴を多くそなえている。
また『建家之図集』を作ったり、洋釘を用いるなど、当時の関本家が有力な商人であったことが伺える。
平成15年7月から市指定有形文化財関本勘兵衛家住宅して公開されているそうです。
 

丁度ひな祭り前でしたので立派なひな人形が展示されていました。
 

次の目的地は・・・
 

富高海軍航空隊基地跡ですが大東亜戦争開戦となったあのトラ・トラ・トラ!ワレ奇襲ニ成功セリ!!で有名な真珠湾攻撃の訓練はここ富高海軍航空隊でも行われていたのです(塩見川河口沖に見える小さな沖磯を標的に訓練されていたようです)。
 

次の目的地は協和病院の敷地内にある神風特別攻撃隊出撃之地碑です。
(ここは特攻隊が鹿屋へ向かう途中の中継地点でしたのでここから直接特攻に行った訳ではないようです)
 

この慰霊碑の後ろには
 

米軍機による爆撃痕が残されています。
 

そしてこの駐車場の一部には・・・
 

このように
 

不自然なコンクリート部分があるのですが
 

実はこれ協和記念病院の駐車場に残る当時の富高飛行場の滑走路跡でして、これらの遺構や慰霊碑は、病院側の厚意で設置されているものです。
 

これが当時のままの滑走路部分です。
 

老朽化した病院の建替え時にも歴史的な史跡を後世に残してくれた協和病院様(初代理事長)に感謝です。
 

次は掩体壕跡地です。


ここの掩体壕は私が二十歳位の頃はまだ健在で整備工場になってました。今思うと最強の整備工場だったのかもしれません?
 

次の目的地は塩見川にかかる大瀛橋(たいえいばし)の袂、しらさぎ公園に展示してある軍用機のプロペラです。
 

これは日本海軍のものではなく、海上自衛隊が寄贈したKM-2練習機のプロペラです。
 

この対岸には富高飛行場の司令部や兵舎が設置されており、海軍将兵は大瀛橋を渡って飛行場へ通っていたそうで


当時の大瀛橋は木造だったそうです。
 

当時の様子が判る地図が残されてました。
 

最後の目的地はここなんですが・・・なんで中学校?と思われると思いますが
 

実はこのレンガ作りの門柱は何と富高飛行場司令部の門柱で現在も富島中学校の校門として保存されているそうで・・・
娘の母校なんですが私は全く知りませんでしたので3年間通った娘に聞いてみたら知らないとの事で。
このような貴重な史跡があるという事を学校側も生徒へ教えてあげればいいのに・・・と思ったのですがもしかして・・・まさか教員自体が知らないのかもしれませんね?!(滝汗


最後に複雑な心境になりましたが新たな発見もありとても充実した史跡巡りポタリングとなりました。
今夜は思い出と新たに得た知識を肴に呑みますかね♪


今日のデータ
TREK 13 REMEDY9,8 MTB
走行時間 202.3分
走行距離 56.0km
本日の消費カロリー 2002.4kcal
今月の走行回数   2回
今月の走行距離   118.3km
2009年10月26日~
積算走行回数  1070回目
積算走行距離  58663.7km

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Posted at 2014/03/02 22:18:12

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この記事へのコメント

2014年3月2日 22:49
これほどのものがあるとは全く知りませんでした。なかなか重いものがありますね・・・

コメントへの返答
2014年3月2日 23:07
懐かしの地にこれほどの史跡があったなんて驚きでしょう?
実はUPしてない所がまだまだ沢山あるんですよ^^
2014年3月3日 1:12
短い時間で よく周られましたね。
日本の戦闘機は鉄板を極限まで薄くして運動性能を維持したようです。
アメリカは搭乗員の安全を確保するためにコックピットを被弾から守る設計だったと聞きました。
運動性能はエンジンの馬力でカバーする考えだったそうです。
この辺が、日本とアメリカの意識の違いが判ります。
コメントへの返答
2014年3月3日 20:24
午後から出発したのでこれ位が限界でした^^
この頃の日本は突撃や特攻など無茶苦茶でしたもんね(涙
2014年3月3日 1:30
永遠の0ですなぁ~
コメントへの返答
2014年3月3日 20:25
戦争は二度と起こしてはなりませんね。
2014年3月3日 6:27
自分は良い時代に生まれて良かったです…(汗)
コメントへの返答
2014年3月3日 20:26
ほんとですよね~先人に感謝せねばです。
2014年3月3日 7:17
おはようございます!
実うまく県北の歴史を網羅するポタリングだったんですね。
色々なことが幕末から太平洋戦争まであったことが分かります。

掩体壕はお隣の町、佐伯市に数個残ってますよ。あの街も海軍基地があったんではなかったでしょうか?
立派な戦争歴史資料館もあったような・・・。
佐伯鶴見の丹賀砲台跡地も面白かったですよ!
コメントへの返答
2014年3月3日 20:31
地元の史跡巡りポタは何度かしているのですが今回は事前の下調べで新たな発見があったのでワクワクでした^^

掩体壕は確か宮崎空港にもありますよね。
県内をある程度見て回ったら県外の史跡巡りもしてみたいと思ってます^^
2014年3月3日 8:45
はじめまして。
県北に、こんなに沢山史跡があるのですね。初めて知りました。

宮崎空港近くにも慰霊碑がありますが、知っている人は僅かです。
もっと、地元の勉強をしないといかんですね。
コメントへの返答
2014年3月3日 20:36
はじめまして。コメントありがとうございます^^
そうなんです、特に戦跡が多いかな?

私もまだまだ知らない所が沢山あるのでこれからも県内の史跡を巡っていきたいと思ってます。

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