※タイトル写真は逝去数日前、院内で行われたクリスマス会で母が頂いたものです。
朝、いつものように見舞いに行くと、主治医の先生が「お疲れ様です。」と声を掛けてきた。
それだけならいつものことだが、「側にいてあげることが、お母さんにとって一番の……」などと言ってきたのだ。
「あんた、俺が毎日見舞いに来てるの知ってるだろうが!」と思いつつも、その言葉が妙に引っかかった。
病室に行くと、夕べから荒くなっていた呼吸はさらに荒くなり、意識はあるもののこちらが話すことに頷くだけで、もう会話することはできなかった。
朝食も食べられなかった。
9時頃になり看護師さんが来て、「向かいの病室へ移りましょう」と言ってきたので指示に従うことにしたが、これまた妙に引っかかることばかりだった。
前日に他の患者さん(男性3人)を移し、広い4人部屋をわざわざ空室にしていたこと、南向きがデフォルトのはずなのにベッドを北向きにして据え付けたことなど……
葬儀屋(広畑大和会館の支配人さん)が互助会プラン契約のため10時に自宅へ来てくれることになっていたので、何か釈然としないまま自宅へ戻り、40分ほどで手続終了。
皿洗いなど雑用を済ませ、正午過ぎ再び病院へ向かった。
呼吸は荒いまま、持ってきてもらった昼食も介助しても食べることすらできない。
言葉を発することもできない。
それでも、目は俺を見続けてくれていた。
そう長くないだろうと思った俺は、1週間だけではあるが母と同室になり、その後もお世話になっている知人の方へ電話した。
「いつ亡くなってもおかしくないから早く見舞いに来て欲しい」と伝えると、「正月明けてからのつもりやったけど今すぐ行く」と言い、着の身着のままでタクシーに飛び乗ってくれたらしい。
その直後である。
目を剥いたかと思うと呼吸が変わった。
それが臨終だとも分からないまま、ナースコールでありのままの状況を伝えた。
後日調べたのだが、この時点で母は意識が飛んだ、つまり寂光(お浄土)へ旅立ったらしい。
すぐに師長さん、続いて見たことない看護師3人と医師が心電図の機械を持って駆けつけてくれたが、それまで妙に引っかかっていた言葉と共に何とも言えない違和感が募ってきた。
師長さんに「いよいよ最期だから手を握ってあげて。ありがとうと言ってあげて。」と言われたので言われるがままにしたが、看護師さんらの「がんばって!」という声掛けや医師の態度など、全てに違和感が募っていた。
だから、極めて不謹慎だが、心電図のモニターを眺めつつ「さっさと終わって欲しい」とさえ思ってしまった。
それから約12分後、医師が腕時計を見せた上で「誠に残念ですが、午後0時49分逝去されました。」と告げた。
俺は医師や看護師らに「ありがとうございました。」と頭を下げた。
今考えれば、データから見てこの日に亡くなることが分かっていたのだ、と。
それも、前々日(12月29日)の病状説明の時点で。
この時は「1~2週間以内に臨終を迎える」という旨の説明だったが、病院側もはっきりと告知することはいろんな意味合いでできなかったのだろう。
あるいは、家族への配慮だったのかもしれない。
最期を看取ることはできたが、本当に呆気ないものだった。
どうのこうの言ってもしょうがない。
後は事務的に事を進めた。
菩提寺のお坊さん、葬儀屋の支配人さん、タクシーに飛び乗ってこちらに向かってくれているであろう知人の方などに連絡。
葬儀屋の支配人さんは内場勝則の如く、「イィィィィーーー!」と叫んで驚いていた。
知人の方はタクシーを降りるところだったらしく、ケータイ越しでもショックと動揺が伝わってきた。
伯父はこういう時に限って電話に出なかった。
知人の方は到着して母の元へ掛けよって抱きしめ、「まだ暖かい、まだ暖かい……」と言いながら涙を流してくれた。
母も俺もこんないい人に出会えてよかったと思う。
程なくして師長さんの立ち会いで「末期の儀」を行い、続いて母の処置と荷物の整理。
その間に知人の方にはコーヒーを差し入れて落ち着いてもらうよう促し、俺は入院当初居た一般病棟の詰所へ御礼の挨拶。
これも以前から決めていたことだ。
詰所を覗くと、Tさんが「兄さん久しぶり!どないしたん?」と声を掛けてきたので、「御礼言いに来たんや…… 12時49分……」と伝えると、他の看護師も一緒に「@@@病棟!?」という驚きの返事。
続いて他の方も含め、「そうやったんや…… 大変やろうけど……」と声を掛けてくれた。
14時半頃葬儀屋の寝台車(アルファード)が迎えに来て、無言の帰宅。
あまりの静かさに、まさしく高級車だなぁと実感した。
葬儀屋の担当者さん、知人の方、俺の3人で六畳間へ運び込み、お坊さんが到着。
以後枕読経、葬儀の打ち合わせ、自分が入るお風呂の準備を済ませる。
打ち合わせの際、火葬場でのお見送りの後の交通手段についてどうしようかと相談したところ、担当のTさん(S15乗り)から「32で送ってあげて下さい」というのを提案された。
スカイラインと言わなかったのがミソである。
「それやったら、担当さんがうちの車名古山(火葬場)まで乗っていって下さいよ。報酬払いますから。」と言ったが、「市の規則で葬儀業者は中へ入れないんですよ。それに、喪主さんの32とうちの15とは違うから、おそらく運転できないと思います。」と却下。
あと担当さんとは、「支配人は本当はNSXに乗りたがっているんですよ。」「私が15を買ったとき、『ターボのどこがええんや?やっぱり大排気量NAやで。』などと言いましてね……」などという会話を交わした。
仏さんの横でこんな会話をしてもいいのかと思ったが、担当さんの心遣いだったのだろう。
それにしても支配人さん、あんたも物好きだなぁ。
半月前の打ち合わせで初めて会ったとき、うちの車を見てニヤニヤしていたがそういうことだったのか、と。
日も暮れた後、知人の方の家へお邪魔し、夕食をご馳走になり23時頃帰宅。
入浴、そして年越し。
顔に布を掛けられ横たわっている母、枕飾り、線香の匂い……
独りになって、「あぁ亡くなったんだな」と実感した。
あれから1年。
そんな怒濤の大晦日。
今日は母が逝去した時間帯にお寺へ参詣してこよう。
御宝前には亡くなる前食べてくれていた苺(ものすごく高かったけど)ときんつばをお供えしよう。
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