
石楯尾神社の後は、吉野宿をちょっとだけ見てきました。
吉野宿は甲州街道の江戸から16番目の宿場で、甲府との中間にあたります
とあり、本陣1軒・脇本陣1軒・旅籠3軒の小さな宿場町ですが、この地に架かる橋は小猿橋と言って山梨の猿橋と同じような造りでした。
地盤が弱く、道が作れなかったのでこのような特別な造りの橋を架けたそうです。
おそらく、橋が渡れなくなった時のための足止めの宿場町だったのだと思います。
吉野宿は、桂川に由来して桂の里と呼ばれていました。
吉野の名の由来は、承久の乱で天皇方についた吉野氏が落ち延びてきて土着した吉野家が本陣・名主としていたからといいます。現在でも屋号は、本陣だそうです。
明治天皇が行幸のさいにこの地で、昼食をとられたとのことで、聖蹟の碑が立っています。
御行幸当時は、木造五層の建物がこの聖蹟の碑の後ろに建っており、その2階で昼食を取られたようですが、後の大火により焼失。現在は写真の土蔵のみ残りました。
土蔵もボロボロで歩道側には金網が貼ってありなんとも残念。
お金がないなりにも少しは宿場っぽく見せるためにか、塀の瓦だけはちょっと綺麗。
あとは、隣家の塀が趣を残すのみでした。
明治天皇御在所から甲州街道を挟んであるのが、今は資料館になっている吉野宿 ふじや
旅籠のなごりが見られる建物です。甲州街道は一般の人は、富士山や身延山参りの人でにぎわったそうです。
旅籠としての役目を終わらせた後は、2階は養蚕に用いられたそうです。
※緊急事態宣言で資料館はやっていませんでした。
吉野宿本陣跡では、数年前は吉野氏が講演会などしていたようですが、ご高齢のためか今では土蔵もあのような状態で他は更地になっており、「私有地」の看板が立っています。
ここから少し歩いた所に、吉野宿の高札場もありますし、旧甲州街道も残っています。
ただ、交通量の拡大やトラックの重さなどのために近代化された橋を架け(一番上の写真の右側に写っている)、そこへのアクセスのために新しい国道が引かれていますので、旧甲州街道は地元の人か歴史に興味のある人しか使わなそうです。
Posted at 2021/09/15 14:42:22 | |
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中央線が好きだ。 | 日記