
武相卯年観音霊場 第四十八番 淵源山
龍像寺 曹洞宗です。
写真は観音堂の内扉の装飾
(お寺の写真は以前ブログにあげたので割愛)
淵源山龍像寺は、曆応年間(1338~1341年)淵辺伊賀守によって開創され、天台沙門存光師によって建立された当寺は、その後巨海才大和尚により再興され、天台宗より曹洞宗に移りました。
その歴史によると、村の東に龍池と呼ばれる池がありました。
向こう岸が見えないほど大きく、まわりは百メートルを越え、武蔵、相模の二国にまたがっていた。
龍池には大蛇が棲んでいていまして、しばしば人畜に害をおよぼし、村人たちは恐怖のあまり家を捨てて、他村へ離散するにいたりました。
時の地頭淵辺判官伊賀守義博は、幕府の許可を得、家来数十人を引き連れ、沼のほとりに参りました。
たちまち大風吹き起き、天地はためき暗く、見るも恐ろしい有様となり、その時龍池の真ん中にむくむくと水が湧き起こり、判官はそれをめがけて二本のかぶら矢を放ち、矢は大蛇に命中、蛇体は三段となり飛び散りました。
同寺に天地は晴明となり、判官たちはただちに龍池を埋め、そして三段に散りし、蛇体はおのおのの場所に葬り、天台宗沙門存光師を招いて、龍頭、龍像、龍尾の三ケ寺を建立しました。
しかしその後三寺とも荒廃に帰してしまい、巨海才大和尚は、このことをいたたましく思い、諸方に托鉢して浄財を募り、弘治二年(1556年)龍像の一寺を再興して、曹洞正宗伝法開山となりました。
観音堂 内扉の下側の彫刻が、上の写真
ここに出てくる淵辺氏は、南北朝時代の武将です。
今回の武相観音霊場は、国境地帯にあるので、時代の変革期には必ず荒廃をくりかえします。
この国境の境川は蛇行がすごく、最近でも河川改修で神奈川と東京の県境が度々交換される地です。
カーナビがでた頃は、道を真っ直ぐ走っているのに、東京に入ったり神奈川に入ったりを繰り返す案内が出て、みんカラ内でも話題になった所です。
今も蛇行した旧河川のあとがわかります。
気になる人は木曽西かわせみ公園辺りで検索してみて下さい。
Posted at 2023/05/05 09:32:42 | |
トラックバック(0) |
観世音菩薩霊場巡礼 | 日記