
壬申の乱の軍施設跡か…奈良・飛鳥寺西方遺跡
出土した石組み溝(11日、奈良県明日香村で)=川崎公太撮影
大化改新たいかのかいしん(645年)を主導した中大兄皇子なかのおおえのみこ(のちの天智天皇)と中臣鎌足なかとみのかまたりが出会った「飛鳥寺西の槻つきの樹きの広場」とみられている奈良県明日香村の飛鳥寺西方せいほう遺跡で、飛鳥時代の砂利敷きや石組み溝などが新たに見つかり、村教委が11日発表した。過去の調査結果を合わせると、砂利や石を敷き詰めた広場が東西約120メートルに達していたことが確実になり、国家の重要な儀礼の場にふさわしい空間だったとしている。また、柱の穴とみられる遺構が同時に出土し、専門家は壬申じんしんの乱(672年)で設けられた軍施設の可能性を指摘する。
今回の調査では東西約10メートル分の砂利敷きを確認。さらに、13~30センチ大の石を組んだ溝(幅約1・3メートル、深さ約15センチ)も東西約25メートルにわたって出土した。広場の排水や区画のために作られたとみられる。
砂利敷きは過去の発掘でも複数地点で出土しており、東西約120メートルに延びていたことが判明。南北は200メートルと推定され、引き続き調査を行う。
同じ調査地では、柱が立っていたとみられる穴13個(直径33~116センチ)も出土。東西方向に2・4~2・7メートル間隔で並び、焼けた土で埋められていた。村教委は来年度、建物跡かどうか確認したいとしている。
日本書紀では、天智天皇の子・大友皇子と、天智天皇の弟・大海人おおあまの皇子(のちの天武天皇)が皇位を争った古代最大の内乱・壬申の乱で、広場に大友側の軍営が置かれ、大海人側が奪取したと記している。
和田萃あつむ・京都教育大名誉教授(古代史)は「飛鳥を守るために置かれた大友側の施設がここにあったのではないか。焼けた土も壬申の乱と関係があるかもしれない」と話している。
現地説明会は14日午前10時~午後3時。近鉄橿原神宮前駅の東約2・5キロ。問い合わせは村教委(0744・54・5600)。
飛鳥寺西の槻の樹の広場 飛鳥寺の西側に位置し、槻(ケヤキの古名)の巨木があった広場で、日本書紀にたびたび登場する。中大兄皇子と中臣鎌足が644年に蹴鞠(けまり)の催しを通じて知り合った場所とされる。天皇が臣下に忠誠を誓わせたり、大勢の客人らをもてなしたりする舞台にもなった。
(2013年12月12日 読売新聞)
現地説明会、明日かよw
西に旅行に行きたいと思っていながら、なかなか行けないなぁ。
Posted at 2013/12/13 20:00:49 | |
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