
【井上章一の大阪まみれ】碁盤の目の道路網、起源は難波!?奈良より前
産経新聞
2 時間前
【井上章一の大阪まみれ】碁盤の目の道路網、起源は難波!?奈良より前© 産経新聞 提供 【井上章一の大阪まみれ】碁盤の目の道路網、起源は難波!?奈良より前
平城京や平安京が、碁盤目状の道路網で構成されていたことは、よく知られる。
東西方向へ走る道と南北方向の道が、この両京では十字に交差しあっていたのである。こういう道路の配置を条坊制という。
平城京ができる前の都であった藤原京も、もうこの道路構成をととのえていた。
同京は、西暦六九四年の持統天皇朝にいとなまれている。持統、文武、元明の三代にわたり、平城遷都の七一〇年までつづいた都である。いっぱんに、日本の条坊制はこの藤原京ではじまったと、言われている。
前回、中大兄皇子が大阪、難波の都で大化の改新にのりだしたことをのべた。改新の詔が、この新しい都で発せられたことも、指摘ずみである。
じつは、その第二条に、こんな都市管理のきまりごとがしるされている。「京には坊毎(ごと)に長一人を置け。四つの坊には令一人を置け」、と。
ここに「坊」とあるのは、周囲を大路でかこまれた区域をさしている。条坊制の一区間をさす言葉にほかならない。
これを真にうければ、条坊制は難波の都からはじめられていたことになる。
奈良の藤原京より、大阪のほうがさきんじていたとしなければならなくなってしまう。日本における条坊制の歩みは、大阪からはじまっていたのだ、と。
しかし、日本の学界は、あまりそういうふうに考えない。そもそも、大化の改新でうちだされたという詔じたいを、うたがう傾向がある。
ほんとうに、あんなのがだされたのか。『日本書記』が、歴史を捏造(ねつぞう)したんじゃないの。五十五年後に制定された『大宝律令』の条文を、さかのぼってあてはめたんじゃあないか。
改新の詔は、遡及(そきゅう)的にこしらえられたフィクションだろう。いや、参照されたのは、七十二年後の『養老律令』かもしれない、と。
藤原京に条坊制のあったことは、考古学的にたしかめられている。しかし、難波につくられた都の場合は、その確認がむずかしい。今はビル街になっているので、発掘調査がのぞめないのである。
まあ、内裏のあった法円坂一丁目あたりは、例外的にしらべることができた。
大極殿の規模などは、のちの藤原京につながることが、わかっている。宮殿の中心軸を南へ延長すれば、四天王寺の東にひろがる方形の地割へとどくことも。私は大阪の条坊制を信じたいのだが。
(国際日本文化研究センター教授)
宮城(きゅうじょう)好きの俺としても、信じてみたい。
古代の城ってのは、都を囲う外壁の内のことであって、中世になるとそれが地形と結びつく。
鎌倉は、鎌倉宮でありその外壁は、三方を囲む山が壁の役割を担っている。
なので、壁たる山から出るのに必要な扉が切り通しなどになっている。
で、九州にある水城や大野城や岡山の鬼ノ城は、防衛設備の城で○○京というのとはちょっと違う。
まぁ、○○京と古代の城を合わせたのが、鎌倉ということになるのかな?
去年は、藤原京跡を見に行ったけど、またどこかへ行きたいなぁw
Posted at 2017/10/29 12:50:47 | |
トラックバック(0) |
zusammen | ニュース