勝って兜の緒を締めよって、北条氏綱の遺言だったんですね。
リンク先の右の方に、ゆかりの神社に石碑が立ったとの記事があります。
北条氏って、小田原評定のイメージから、元祖民主党政権だと思うんですが、100年も続いたのにはそれなりの人材がいたってことなんですね。
北条氏って、個人的には好きではないのですが、南関東に住んでいるとどうしても郷土の武士として知らなくちゃならないんですよ。
好きか嫌いかに関わらず、この辺のことをもっと知りたいなぁ。
追記:
石碑も完成「勝って甲の…」初使用は北条氏綱説
2018年01月19日 15時10分
石碑が完成し、笑顔をみせる石井さん(右)(昨年12月、小田原市の居神神社で)
石碑が完成し、笑顔をみせる石井さん(右)(昨年12月、小田原市の居神神社で)
2代・北条氏綱(小田原市提供)
2代・北条氏綱(小田原市提供)
勝って甲かぶとの緒を締めよ――。
順境時の慢心を戒めるこの有名格言を初めて使ったのは、小田原北条氏の2代・氏綱うじつな(1487~1541年)だとする説を神奈川県小田原市の歴史愛好家・石井啓文ひろふみさん(77)が提唱している。石井さんは「北条氏には秀吉の敗者という側面もあるが、関東一円を治めた強さの源には、格言に象徴される真面目さと正直さがあったと知ってほしい」と話している。
北条氏による小田原支配は、初代・早雲(~1519年)が1500年前後に小田原城に入り、1590年に秀吉の小田原攻めで開城するまでの1世紀近くにわたって続いた。親族同士が争うのが当たり前だった戦国時代、一族が結束した北条氏は異色の存在だ。
石井さんによると、「勝って甲」の文言は、氏綱が没する2か月前、3代・氏康うじやすに残された遺訓「北條氏綱置文」に記述されているという。
置文は5か条からなり、〈1〉義を守ること〈2〉才能に応じて人をいかすこと〈3〉分限を守ること〈4〉倹約すること――と続き、最後に〈5〉「勝って甲の緒を締めよといふ事、忘れ給ふへからす」と記した上で、「右、堅く相守れば当家は繁昌するなり」と結ばれている。
石井さんは過去の文献を探り、「勝って甲」がこの置文を含めて計14件で使用されていることを突き止めた。「異本小田原記」(1593年)、「甲陽軍鑑」(江戸時代)、「三河物語」(同)のほか、日露戦争の日本海海戦を大勝に導いた東郷平八郎が読み上げた「連合艦隊解散の辞」(1905年)などがあり、石井さんは氏綱による置文が最も古い記述だと判断した。
出典は不明だが、5か条の前文には「古人の金言名句を書きおく」とあることから、石井さんは中国・荀子の文書にある「敵に勝ちていよいよ戒む」を解釈したものだろうと推測し、「名和訳」と評価している。
■ゆかりの地に石碑
石井さんの研究などに基づき、氏綱とゆかりのある居神いがみ神社(小田原市城山)には昨年末、格言を刻んだ石碑が建てられた。
神社は1520年に創建され、北条氏と戦った三浦義意よしおきをまつっている。家督を継いだばかりの氏綱が、かつて同族だった三浦氏を慰霊するために建立させたものだとされる。
置文は北条氏の家訓となり、人心を掌握して関東の覇者となった北条氏繁栄の礎になった。賛同者71人によって建てられた石碑について、石井さんは「多くの人に素晴らしい石碑を見てもらい、北条氏への理解を深めてほしい」と喜んだ。(丹下信之)
2018年01月19日 15時10分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
Posted at 2018/01/19 10:02:56 | |
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