
津久井観音霊場 第三十二番 金徳山
光明寺
臨済宗建長寺派
当寺の旧称は、桐谷宝積寺と号す。建久年間(1190~99)退耕行勇和尚の草創に係り、台密、禅兼学の寺で、当時七堂伽藍と坊舎が38あったと伝わっている。
文永年間(1264~75)に、鎌倉建長寺開山大覚禅師留錫以来、禅宗だけを専修する寺に変わったと言う。
嘉元三年(1305年)に夢窓疎石が宝積寺に、留錫、光明院を創立し、安居の地としたという。
その後、永禄十二年(1569年)、北条、武田の三増合戦の際、兵火にかかり堂塔坊舎を尽く焼失した。
天正六年(1578年)津久井領主が、なにがあっても永存するよう寺中の坊舎を村々に配置し、桐谷宝積寺の称を改め、頭塔光明院を合併し、さらに桜野の地に再建し、金徳山光明寺と改称した。
当山は夢窓国師を開山とし、永禄の戦禍後、寺を再建した俊雙〇和尚を中興開山としている。
徳川幕府は、文化元年(1804年)蝦夷地に新寺建設を当山の住職文翁政和尚に命じ、禅師は厚岸に国泰寺を創設する。
その頃幕府は、当寺を官寺に準ずる寺格と葵紋章を許されたのである。
本尊は、運慶作と伝わる。
このお寺は、小田原北条氏関係の古文書とかが残っているお寺です。
七堂伽藍があったことから、昔から郡衙などと関係があったのかもしれません。
Posted at 2021/06/20 10:37:51 | |
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観世音菩薩霊場巡礼 | 日記