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川瀞庵の庵主のブログ一覧

2017年10月29日 イイね!

碁盤の目の道路網、起源は難波!?奈良より前

碁盤の目の道路網、起源は難波!?奈良より前【井上章一の大阪まみれ】碁盤の目の道路網、起源は難波!?奈良より前

産経新聞
2 時間前


【井上章一の大阪まみれ】碁盤の目の道路網、起源は難波!?奈良より前© 産経新聞 提供 【井上章一の大阪まみれ】碁盤の目の道路網、起源は難波!?奈良より前


 平城京や平安京が、碁盤目状の道路網で構成されていたことは、よく知られる。

東西方向へ走る道と南北方向の道が、この両京では十字に交差しあっていたのである。こういう道路の配置を条坊制という。



 平城京ができる前の都であった藤原京も、もうこの道路構成をととのえていた。

同京は、西暦六九四年の持統天皇朝にいとなまれている。持統、文武、元明の三代にわたり、平城遷都の七一〇年までつづいた都である。いっぱんに、日本の条坊制はこの藤原京ではじまったと、言われている。



 前回、中大兄皇子が大阪、難波の都で大化の改新にのりだしたことをのべた。改新の詔が、この新しい都で発せられたことも、指摘ずみである。



 じつは、その第二条に、こんな都市管理のきまりごとがしるされている。「京には坊毎(ごと)に長一人を置け。四つの坊には令一人を置け」、と。

ここに「坊」とあるのは、周囲を大路でかこまれた区域をさしている。条坊制の一区間をさす言葉にほかならない。



 これを真にうければ、条坊制は難波の都からはじめられていたことになる。

奈良の藤原京より、大阪のほうがさきんじていたとしなければならなくなってしまう。日本における条坊制の歩みは、大阪からはじまっていたのだ、と。



 しかし、日本の学界は、あまりそういうふうに考えない。そもそも、大化の改新でうちだされたという詔じたいを、うたがう傾向がある。



 ほんとうに、あんなのがだされたのか。『日本書記』が、歴史を捏造(ねつぞう)したんじゃないの。五十五年後に制定された『大宝律令』の条文を、さかのぼってあてはめたんじゃあないか。

改新の詔は、遡及(そきゅう)的にこしらえられたフィクションだろう。いや、参照されたのは、七十二年後の『養老律令』かもしれない、と。



 藤原京に条坊制のあったことは、考古学的にたしかめられている。しかし、難波につくられた都の場合は、その確認がむずかしい。今はビル街になっているので、発掘調査がのぞめないのである。



 まあ、内裏のあった法円坂一丁目あたりは、例外的にしらべることができた。

大極殿の規模などは、のちの藤原京につながることが、わかっている。宮殿の中心軸を南へ延長すれば、四天王寺の東にひろがる方形の地割へとどくことも。私は大阪の条坊制を信じたいのだが。

 (国際日本文化研究センター教授)










宮城(きゅうじょう)好きの俺としても、信じてみたい。

古代の城ってのは、都を囲う外壁の内のことであって、中世になるとそれが地形と結びつく。

鎌倉は、鎌倉宮でありその外壁は、三方を囲む山が壁の役割を担っている。

なので、壁たる山から出るのに必要な扉が切り通しなどになっている。

で、九州にある水城や大野城や岡山の鬼ノ城は、防衛設備の城で○○京というのとはちょっと違う。

まぁ、○○京と古代の城を合わせたのが、鎌倉ということになるのかな?

去年は、藤原京跡を見に行ったけど、またどこかへ行きたいなぁw
Posted at 2017/10/29 12:50:47 | コメント(0) | トラックバック(0) | zusammen | ニュース
2017年10月28日 イイね!

神無月の台風

ここのところの長雨で、今年の柿は葉が落ちないのに熟してしまうという変な状況になっていました。

そこへ台風がきて、ぼとぼとと落ちてしまいまして、匂いがすごくなってしまいました。

思い切って短くしてしまおうと枝を切り始めました。

そうしたら、屋根や地面に落ちて潰れている柿に、なにやら動くものがw

二匹、いや三匹!そのうち一匹は通常の三倍のスピードで近づいてきます!

オオスズメバチでした。

頭の白い父には向かってきませんが、黒いものに反応するスズメバチはこっちに向かってきます。

そりゃー、隣人に柿の枝切ってくれって言われますわなw






例年なら、葉が落ちてから柿を獲っていたので蜂がいないのですが、今年は蜂も長雨の合間の晴れの日に食糧を確保したいのでしょう。

結局、蜂が巣に戻っている間に作業をして、蜂が柿に来ているときは父が作業をしてという風になったので、ほとんど父が枝を切ることになってしまいました。

歳なんだからと屋根には登らせませんでしたが、脚立を使って木に登るのは結局父でして、見せ場のない柿もぎとなりました。

Posted at 2017/10/28 07:23:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2017年10月27日 イイね!

足利尊氏の顔、これで決まり? 中世肖像画の写し発見

足利尊氏の顔、これで決まり? 中世肖像画の写し発見足利尊氏の顔、これで決まり? 中世肖像画の写し発見

朝日新聞デジタル
4 時間前

新たに見つかった「足利尊氏像」(部分)=栃木県立博物館提供© 朝日新聞 新たに見つかった「足利尊氏像」(部分)=栃木県立博物館提供


 顔だちを巡って今も意見が分かれる室町幕府の初代将軍・足利尊氏(1305~58)。彼が亡くなってほどない時期に描かれたと見られる肖像画の写しが発見された。

中世まで確実にさかのぼれる尊氏の肖像画は他に一例しかなく、専門家は「尊氏の顔がこれではっきりした」と話す。



 確認された「足利尊氏像」は縦88・5センチ、横38・5センチ。軸装された画の下側に正装して着座する人物が描かれ、上方には十数行にわたって画中の人物の来歴をつづった文章がある。



 個人が所有するもので、栃木県立博物館の本田諭特別研究員や鎌倉歴史文化交流館の高橋真作学芸員らが、資料調査の際に発見。

(1)尊氏を示す「長寿寺殿」という言葉がある(2)尊氏の業績として知られる国内の66州に寺や塔を建立した旨が記されている――などから尊氏像と判断した。



 近年の研究で、歴史教科書などで尊氏像として紹介されてきた「騎馬武者像」(京都国立博物館蔵)は尊氏でない可能性が高まっている。

現在、その姿を伝えるものとして、室町時代以前に描かれた肖像画は「絹本著色(ちゃくしょく)足利尊氏将軍画像」(広島県浄土寺蔵)のみだという。



 肖像画のほかに、息子の2代将軍・義詮(よしあきら)が14世紀に京都の東岩蔵寺に奉納したとも言われる「木造足利尊氏坐像(ざぞう)」(大分県安国寺蔵)がある。

今回の肖像画は大きな鼻や垂れた目などこれら二つの作品と特徴が酷似しているという。

「尊氏はこの通りの顔つきをしていたのでは」と本田さん。来歴の文章に誤記があることなどから、14世紀末ごろに描かれた「原本」をもとに15世紀に模写された可能性が高いと見る。



 実物を調査した東京大学東洋文化研究所の板倉聖哲教授(東アジア絵画史)は「木像の顔貌(がんぼう)と似た肖像画が出現したのは、尊氏像の議論にとっても重要な発見」と評価する。

  ◇

 「足利尊氏像」は、栃木県立博物館の「中世宇都宮氏」展で29日まで公開中。(編集委員・宮代栄一)















はっきりしたのはいいが、昔ならった方の絵のかたの方がりりしいと思うw
Posted at 2017/10/27 10:09:04 | コメント(2) | トラックバック(0) | zusammen | ニュース
2017年10月26日 イイね!

本能寺直後の秀吉、信長ゆかりの品の略奪許さず

本能寺直後の秀吉、信長ゆかりの品の略奪許さず本能寺直後の秀吉、信長ゆかりの品の略奪許さず
10/26(木) 7:33配信 読売新聞

発見された秀吉の書状。右から3行目の上から2文字が信長を意味する「上様」


 織田信長が明智光秀に討たれた1582年(天正10年)の本能寺の変の直後、羽柴(豊臣)秀吉が家臣に宛てた書状が愛媛県内の個人宅で発見された。

 変後に横行した京都市中での略奪に対し、信長ゆかりの品物に限っては持ち主に返すよう命じた内容だ。

亡き主君・信長を変後も秀吉が尊重していたことを示す史料として注目される。



 東京大史料編纂(へんさん)所の村井祐樹准教授が25日に現地で調査し、筆跡や内容から新発見の書状と判断した。

天正10年8月14日付で、秀吉が堀尾毛介(もすけ)(吉晴)ら3人の家臣に宛て、文末に「筑前守 秀吉」の名と花押がある。



 戦国時代、略奪を避けるため武士や公家が寺社に財産を預ける「預物(あずけもの)」の慣行があったが、変後は明智勢による預物の略奪が頻発。

明智勢を破って入京した秀吉は、それらの略奪物の持ち主を確認するよう家臣に命じたが、秀吉の家臣までもが預物の略奪を始めた。



 書状では、家臣の略奪を受け、「預ヶ物(預物)」や「乱妨物(強奪した物)」については「(今後)一切調査は行わない」と伝える一方、信長の所有物や、信長から賜った「上様御物(うえさまごもつ)」は返還を命じている。




















戦乱の中でも文化財が残っているのってすごいと思ったら、秀吉がこんな書状を出していたんですね。

Posted at 2017/10/27 09:22:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | zusammen | ニュース
2017年10月21日 イイね!

段丘と湧水ウォーキングに行ってきた

市内だったのですが、この雨の中、靴がぐちょぐちょになる位歩いてきました。

スニーカーじゃなくてやっぱりブーツで行けばよかった・・・

まぁ、雨のおかげで湧水が滝になっている所ははっきり見れました。

旧相模原市は、和田義盛の乱長尾景春の乱などの負けた側に与した人が治めていたようで、歴史の空白時期があるのですが、ほかの時代はまぁ歴史が残っているようです。

最近、地方史の本を読み始めてますが、圧倒的に江戸時代のことが多いのです。

全国でさえ中世のものは残っていないのに、数度も負け組に入っているとは・・・

産業革命が興る前では、地の利に不利な土地だったんでしょうね。
Posted at 2017/10/21 17:09:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | ウォーキング | 日記

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「光岡のM55がかっこいいと思う」
何シテル?   11/29 20:10
74式戦車と同じ年です 相模川の瀞庵の庵主で、日本文化の継承をしています 三増峠(信玄道) 戦車道路 行幸道路 大山街道等をうろついて...
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