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川瀞庵の庵主のブログ一覧

2018年01月26日 イイね!

文化財防火デー

文化財防火デー年末年始に読んだ本です。

戦国時代をやるなら「豊臣秀次と能」をやりなさい。と言われ、

ずっと気になっていたので、ちょっと読んでみました。

以外にも戦国武将のちゃんとした本を読むのは初めてですw

で、簡単に言うと、

秀吉が関白になってはみたものの、宮仕えが嫌でフリーな太閤職につき、

甥っ子で養子の秀次に関白職を譲ったという、

若くして公家になった人です。



太閤秀吉=フリー→朝鮮出兵

関白秀次=宮仕え→聚楽第で留守を守る


で、この留守を守る間に、戦国であれた文化の保護・補修を公家と一緒にやったのです。

古典籍の保存と修復、古人の筆蹟蒐集などをしたり、

源氏物語を愛し、和歌集を集め、能の謡抄を作りました。

悲しい最期を遂げますが、彼の残した文化財を守る歴史を見習いたいものです。
Posted at 2018/01/26 12:09:32 | コメント(1) | トラックバック(0) | zusammen | 日記
2018年01月24日 イイね!

幽霊の話って本当だったのかも・・・

こんな記事がありました。

日本の幽霊の話で、

毎晩飴を買いに来る若い女性がいて、不思議に思って飴屋が女の後をつけていくと、着いたところは墓地で、怖くなったが墓地に入って行くとどこからともなく赤子の声が聴こえ、

和尚さんに言って、墓地を掘ってみたら死んだ女の人が赤子を生んでいたというのがあると思うのですが、これって本当にあった話かもしれませんね。

この話、なにか文献などが残っていたらすごいですね。

Posted at 2018/01/24 15:07:35 | コメント(2) | トラックバック(0) | 日記
2018年01月19日 イイね!

小田原の神社

小田原の神社勝って兜の緒を締めよって、北条氏綱の遺言だったんですね。

リンク先の右の方に、ゆかりの神社に石碑が立ったとの記事があります。

北条氏って、小田原評定のイメージから、元祖民主党政権だと思うんですが、100年も続いたのにはそれなりの人材がいたってことなんですね。

北条氏って、個人的には好きではないのですが、南関東に住んでいるとどうしても郷土の武士として知らなくちゃならないんですよ。

好きか嫌いかに関わらず、この辺のことをもっと知りたいなぁ。

追記:

石碑も完成「勝って甲の…」初使用は北条氏綱説
2018年01月19日 15時10分
石碑が完成し、笑顔をみせる石井さん(右)(昨年12月、小田原市の居神神社で)
石碑が完成し、笑顔をみせる石井さん(右)(昨年12月、小田原市の居神神社で)
2代・北条氏綱(小田原市提供)
2代・北条氏綱(小田原市提供)

 勝って甲かぶとの緒を締めよ――。

 順境時の慢心を戒めるこの有名格言を初めて使ったのは、小田原北条氏の2代・氏綱うじつな(1487~1541年)だとする説を神奈川県小田原市の歴史愛好家・石井啓文ひろふみさん(77)が提唱している。石井さんは「北条氏には秀吉の敗者という側面もあるが、関東一円を治めた強さの源には、格言に象徴される真面目さと正直さがあったと知ってほしい」と話している。

 北条氏による小田原支配は、初代・早雲(~1519年)が1500年前後に小田原城に入り、1590年に秀吉の小田原攻めで開城するまでの1世紀近くにわたって続いた。親族同士が争うのが当たり前だった戦国時代、一族が結束した北条氏は異色の存在だ。

 石井さんによると、「勝って甲」の文言は、氏綱が没する2か月前、3代・氏康うじやすに残された遺訓「北條氏綱置文」に記述されているという。

 置文は5か条からなり、〈1〉義を守ること〈2〉才能に応じて人をいかすこと〈3〉分限を守ること〈4〉倹約すること――と続き、最後に〈5〉「勝って甲の緒を締めよといふ事、忘れ給ふへからす」と記した上で、「右、堅く相守れば当家は繁昌するなり」と結ばれている。

 石井さんは過去の文献を探り、「勝って甲」がこの置文を含めて計14件で使用されていることを突き止めた。「異本小田原記」(1593年)、「甲陽軍鑑」(江戸時代)、「三河物語」(同)のほか、日露戦争の日本海海戦を大勝に導いた東郷平八郎が読み上げた「連合艦隊解散の辞」(1905年)などがあり、石井さんは氏綱による置文が最も古い記述だと判断した。

 出典は不明だが、5か条の前文には「古人の金言名句を書きおく」とあることから、石井さんは中国・荀子の文書にある「敵に勝ちていよいよ戒む」を解釈したものだろうと推測し、「名和訳」と評価している。

 ■ゆかりの地に石碑

 石井さんの研究などに基づき、氏綱とゆかりのある居神いがみ神社(小田原市城山)には昨年末、格言を刻んだ石碑が建てられた。

 神社は1520年に創建され、北条氏と戦った三浦義意よしおきをまつっている。家督を継いだばかりの氏綱が、かつて同族だった三浦氏を慰霊するために建立させたものだとされる。

 置文は北条氏の家訓となり、人心を掌握して関東の覇者となった北条氏繁栄の礎になった。賛同者71人によって建てられた石碑について、石井さんは「多くの人に素晴らしい石碑を見てもらい、北条氏への理解を深めてほしい」と喜んだ。(丹下信之)

2018年01月19日 15時10分 Copyright © The Yomiuri Shimbun


Posted at 2018/01/19 10:02:56 | コメント(1) | トラックバック(0) | 地方創生 | ニュース
2018年01月13日 イイね!

天正遣欧使節団 奴隷遺言書発見

今朝の読売31面に天正遣欧使節の船に日本人奴隷が乗っていたことがはっきりした(正確には「奴隷」として海外渡航した人物の遺言書がマドリード王立史学士院図書館にあることが判明した)とのこと。ただ主人の遺産として年9万レイスの ... は不明、ダミアン・デ・リマと名乗る人物。マドリード王立図書館にある遺言書を東京外語大の特任凖教が発見! ... 大友宗麟ら九州のキリシタン大名が少年使節をローマ教皇に派遣したのが天正遣欧使節で、伊達政宗が家臣の支倉常長をヨーロッパに派遣したのが慶長遣欧使節ね。
https://search.yahoo.co.jp/realtime/search?ei=UTF-8&rkf=1&p=%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E9%81%A3%E6%AC%A7%E4%BD%BF%E7%AF%80



この記事紙面で見たけど、奴隷として渡った日本人が財をなして、同じような境遇にあるマカオの日本人に支援していたもよう。

今、たまたま天正の頃の本を読んでいるのでタイムリー。

まだまだ知らない事あるね。
Posted at 2018/01/13 09:16:52 | コメント(1) | トラックバック(0) | 日記
2018年01月12日 イイね!

小机城址に行ってきました

小机城址に行ってきました小机城址は横浜にある城で、損傷が激しいものの、公園となって残っています。

JRの駅からも近く、初心者向けの城です。



鶴見川に突き出た丘陵上に作られています。
鶴見川および鎌倉街道の交通の要衝にあり、船運の管理をしていたと思われます。
横浜市北部一帯を含む支配拠点でした。



戦国時代には、後北条氏の関東進出のなかで軍事拠点となり城も改築されたようです。



後北条氏の重臣、笠原信為が城代になったあと、北条三郎・氏信・氏堯・氏光が城主となりました。

こちらもどうぞ。
Posted at 2018/01/12 09:47:53 | コメント(2) | トラックバック(0) | 横浜線沿線散歩 | 日記

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「光岡のM55がかっこいいと思う」
何シテル?   11/29 20:10
74式戦車と同じ年です 相模川の瀞庵の庵主で、日本文化の継承をしています 三増峠(信玄道) 戦車道路 行幸道路 大山街道等をうろついて...
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