越水城(西宮市)
瓦林政頼が築城し、三好長慶が一時本拠にした越水城
2006年08月31日
瓦林政頼は永正13(1516)年越水城を築城しました。いまの町名では城山・桜谷・満池谷・清水の4町にまたがり、その広さは南北約200m・東西約100mで小清水城あるいは腰水城といわれていました。ここは西国街道の要衝で、城にかかせぬ水にも恵まれた築城の適地でした。また、ここは観応2(1351)年足利尊氏と弟直義が戦った小清水の陣所跡でもあります。
この城は、一説には天守閣もあり外城を備え、人々を住まわせた西宮には、城下町のような雰囲気があり、「おおよそ目を驚かす風情」であったそうです。
応仁の乱に始まる戦国時代初期、細川勝元の息子政元は山伏信仰に凝り、生涯独身を通したため養子を迎えました。九条氏から迎えた細川澄之に跡を継がせるつもりでしたが、阿波細川家から養子に迎えた細川澄元に跡をつがせることとなったため、細川家は澄之派と澄元派で内紛が始まり、澄之派に懐柔された家臣に政元は殺害されました。その後澄之は敗れ、澄元が家督を継ぐことになりますが、今度は政元のもう一人の養子高国が、周防に亡命していた前の将軍足利義稙(義材)が上洛すると高国はこれと結び、将軍義澄や澄元と戦うことになります。越水城主瓦林政頼は細川氏の内紛に高国方に味方しますが、四国より京にのぼる澄元を迎えうって敗れ、その上澄元に内通したとして切腹、死後澄元の家臣三好氏が入城しました。天文2(1533)年には瓦林と一向一揆が三好を攻めて城を奪い返し、瓦林の一族が城を守りますが、さらに攻防が繰り返されて、ついに畿内の覇者三好長慶の居城となり、彼は家臣松永久秀を京に止めて越水城で指揮をとりました。
永禄9(1566)年時の城主四国阿波の篠原長房は、瓦林三河守に攻められ、一旦開城しますが4日後に復活します。9月には足利義親(のちの足利幕府14代将軍義栄)が入城しましたが、永禄11(1568)年に織田信長の入洛により、越水城の戦略的価値が消え、廃城となりました。
大社小学校の南東隅に石碑と説明看板有り。
Photo Ricoh Caplio R3
H18.8.31
住所: 西宮市桜谷町9番7号
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