名胡桃城(みなかみ町・旧月夜野町)
秀吉の小田原攻めの原因となった真田家の城
2006年09月27日

南に赤城山、北に谷川連峰、東西を山に囲まれたこの利根・沼田地方は、鎌倉時代より戦国時代にかけて沼田氏が支配していました。沼田氏の全盛期には一族や重臣たちを各地に配して勢力の拡大を図りました。名胡桃氏・小川氏・石倉氏・川田氏らです。
名胡桃城は、湯舟沢の断崖の上に築かれた山城で、室町時代に沼田氏の一族と言われる名胡桃氏が、館(般若郭・現在の駐車場)を築いたのが始まりといわれています。
戦国時代の天文の頃、小田原の北条氏が赤城山を越えて利根に進行し、沼田氏を追放して利根沼田一帯は北条氏の支配となりました。
永禄3(1560)年越後から上杉謙信が三国峠を越えて進出し、名胡桃城をはじめ山城や砦を攻略し、北条氏の城となっていた沼田城を手中にし、更に前橋・武蔵へと進み北条氏と対峙しました。
上杉謙信の利根沼田地方の支配は10年余も続きましたが、天正6(1578)年謙信が春日山城内で急死すると、北条氏は沼田に進攻し再び北条氏の支配となりました。
謙信の没した翌天正7年(1579)には、勝頼の命を受けた真田昌幸が信濃から吾妻・利根に進攻し、点在する山城・砦を手中にして、小川城の小川可游斎とともに名胡桃館を攻略しました。そして沼田城を手中にする前線基地として、隣りに名胡桃城を築いたのです。
天正8(1580)年念願としていた沼田城を調略しました。その後沼田城をめぐって真田氏と北条氏の間で攻防が続きました。
真田昌幸は沼田城の支城の名胡桃城に鈴木主水を入れていましたが、天正17(1589)年、関白豊臣秀吉は沼田を北条領とし、真田昌幸に沼田城を明け渡させましたが、「名胡桃は墳墓の地」と主張する真田昌幸に配慮し、名胡桃を真田領とする裁定を下しました。
しかし、北条方の沼田城代・猪俣邦憲の謀略により名胡桃城が奪取され、鈴木主水は責任を感じ、切腹しました。この名胡桃事件に激怒した秀吉により北条討伐が命ぜられ、天正18(1590)年、小田原攻めが始まりました。小田原城開城後は沼田・名胡桃領は真田氏に与えられました。
大正12(1923)年名胡桃城址保存会が地元の有志によって設立され、本丸址に昭和2(1927)年、徳富蘇峰の書になる「名胡桃城址之碑」が建立されました。
昭和24(1949)年12月、群馬県指定史跡になりました。
国道17号沿いというアクセスの良さもさることながら、駐車場もありますし、発掘調査も十分にされ、また土塁などの遺構も比較的よく保存されており、歴史好きの方にかなりおすすめできる城だと思います。
平成28(2016)年の大河ドラマ「真田丸」の第22回「裁定」の「真田丸紀行」で紹介されました。
H18.9.15
Photo Canon EOS M3
H28.8.7(写真差し替え)
住所: 群馬県みなかみ町下津
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