高野長英の隠れ家(西予市・旧宇和町)
二宮敬作を頼って卯之町に来た高野長英の隠家
2006年11月17日
高野長英は文化元(1804)年5月5日、陸奥国水沢(岩手県水沢市)に生まれました。幼名は悦三郎。叔父高野玄斎の養子となり、高野の姓となりました。杉田玄白や吉田長淑に入門した後、鳴滝塾でシーボルトに学ばいました。
田原藩家老・渡辺華山や岸和田藩医・小関三英らと尚歯会を結成。飢餓対策や西洋事情の研究などに奔走します。天保8(1837)年、浦賀沖にきた米国モリソン号を幕府が砲撃し、長英は「夢物語」を、渡辺華山は「慎機論」を書き、幕府の怒りに触れ、長英は永牢の刑になり入獄しました。(蛮社の獄)
入獄6年目、獄舎が火災になり一時釈放されますが、そのまま逃亡します。諸国の数多い門人や学者、また宇和島や薩摩藩主などに守られ、信越、東北、江戸、上方、宇和島、鹿児島などを巡り、6年間潜行しました。
宇和島藩内には嘉永元(1848)年4月2日に入り、宇和島横新町の宇和島藩家老・桜田佐渡の別荘に身を隠しました。その間に「砲家必読」(全十一巻)などを訳しています。翌年1月、追っ手から逃れるため宇和島城下を去り、卯之町に住む学友・ニ宮敬作の自宅裏の離れ二階などに潜みました。(現在地)
4月には鹿児島に向かいましたが安んずることができず、再び宇和島を経由し、6月3日卯之町に到着し、10日間余滞在しました。8月には江戸を経由し、下総に潜伏しました。翌年の嘉永3(1850)年再び江戸に帰り、青山百人町に居を構え、医業を営みました。10月30日、捕吏7人に襲われ、自刃しました。
隠れ家は、階下6畳と3畳、2階4畳半、階段は3畳の間に設けられていたといいます。その後、平屋建に改築され保存されています。瓦葺木造平屋建、間口3.6m、奥行2.7m、建坪9.7平方メートル、床の間と押入れ付きで、北側と南側に2枚の障子と雨戸があります。
(現地説明板などより)
※平成16(2004)年4月1日に東宇和郡明浜町・宇和町・野村町・城川町、西宇和郡三瓶町が合併し西予市となりました。
H18.11.11
Photo Canon EOS 5D MarkⅣ
R1.9.21(写真差し替え)
住所: 愛媛県西予市宇和町卯之町3-239
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