関ヶ原古戦場・大谷吉継〔吉隆〕の墓〔藤川台〕(関ヶ原町)
敵方藤堂家が建立した大谷吉継の墓
2007年04月02日
大谷吉継は、豊臣秀吉に、「吉継に100万の兵を与えて、自由に指揮させてみたい」といわしめた武将です。天正17(1589)年に敦賀5万石を与えられ敦賀城主となりました。
関が原の戦い前に石田三成の挙兵を勝ち目がないとして思いとどまらせようとしましたが、三成は聞き入れず挙兵しました。大谷吉継も敗戦を予測しながら三成方に味方しました。西軍加担を決めた際に吉隆に改名したといわれています。
関が原の戦いでは、小早川秀秋の裏切りを懸念して松尾山に面した、古来山中城といわれる要害に陣取りました。
藤堂高虎、京極高知の軍勢と戦い、退けましたが、小早川秀秋の東軍への寝返り後、小早川秀秋対策で配した脇坂安治らも寝返り攻撃してきました。その結果奮戦むなしく大谷勢は壊滅、吉継は自刃しました。自害する前に側近の湯浅五助に「病み崩れた醜い顔を敵に晒すな」と申し伝えていたため、湯浅五助は戦場から離れた場所に埋めました。湯浅五助は藤堂高虎の甥の藤堂仁右衛門高刑に発見されましたが、「主君の首を埋めたことを秘して欲しい」と頼み、藤堂仁右衛門に首を授けました。藤堂仁右衛門は徳川家康に「五助の首を取ったのなら、大谷吉継の首について知っているだろう」と詰問されました。仁右衛門は「存じておりますが、湯浅五助の最後に約束したことなので他言できません」と正直に答えたため、家康も「さても律儀なる若者かな」と仁右衛門を褒め、自分の槍と刀を与えたそうです。
大谷吉継陣跡の北側500mほどのところに大谷吉継の墓があります。この墓は関ヶ原の戦い後藤堂家により建てられました。隣には湯浅五助の墓もあります。
また、近くには「大谷刑部少輔吉隆の碑」があり、こちらも伯爵藤堂高紹氏の書によるものです。
Photo Canon EOS 30D
H19.3.27
住所: 岐阜県不破郡関ヶ原町大字藤下
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