楠葉台場〔橋本砲台〕(枚方市)
鳥羽伏見の戦いで小浜藩が守った楠葉砲台〔橋本砲台〕跡
2007年04月30日

楠葉台場は、京都守護職を務めた会津藩主松平容保の建白書により江戸幕府が築造し、慶応元年(1865)に完成した砲台場(大砲を備えた要塞)です。
「河州交野郡楠葉村関門絵図一分計」(京都府立総合資料館所蔵)という設計図によると、台場南正面(大阪側)は西洋の築城様式である「稜堡式」が採用され、3基の砲台や高い土塁、深い堀などが設けられました。河川台場としては日本で唯一、遺構が残っていることなどから、平成23(2011)年に国の史跡に指定されました。
元治元(1864)年、徳川幕府は大阪湾から京都に侵入する外国船に備えて、淀川左岸のここ楠葉と右岸の高浜(島本町)に砲台(台場)を築き、翌年には楠葉関門を設けました。
幕末期、開国を求める異国船が大阪湾にも入ってきたので、淀川を遡り京都へ侵入するのを防ぐため築造したとされていますが、京都と大阪を結ぶ京街道のルートを曲げて台場内部を通過させていることから、実際には関所(関門)として尊王攘夷派らの京都侵入を取り締まることにありました。
慶応4(1868)年1月、大阪城から京都に向けて進軍した旧幕府軍は鳥羽・伏見で新政府軍と衝突し、戦闘が始まりましたが、旧幕府軍は後退を続け、戦線を立て直すために橋本陣屋(八幡市)と楠葉台場に集結します。高浜砲台を守っていた津藩藤堂家は、、旧幕府軍の不利をみて官軍に内応し、小浜藩酒井家が守る楠葉砲台に砲撃を浴びせました。これにより、淀川を挟んで両台場は交戦することとなりました。旧幕府軍も応戦したものの、退路を断たれることを恐れ、大阪へ落ち延びて行きました。楠葉台場は、伏見、淀から敗走した幕府軍で混乱を極め、台場の守備兵は砲弾を撃ちつくしたのち、砲を破壊して退去しました。その後、台場は新政府軍が接収、跡地は民間へ売り渡され、明治末ごろには完全に姿を消したようです。久修園院の南西方に砲台跡の土塁が残っていましたが、明治末期の京阪電鉄の敷設に伴い土砂は運び去られました。なお両台場に設置されたのは、カノン砲4門であったと考えられています。
「戊辰役橋本砲台場跡」の石碑は、京都の呉服商だった三宅清治郎が、父の保兵衛の遺志に基づき、昭和3(1928)年に建てたものを、この地に移設しています。このあたりは京都府八幡市の橋本にも近く幕末期、京都から見ると、陣屋のあった橋本集落の南方に台場があったことから、「橋本台場」とも呼ばれていたようで、この石碑も「橋本砲台場」と記されています。
平成23(2011)年2月7日に国の史跡に指定され、平成27(2015)年、楠葉中之芝土地区画整理事業の施行区域として仮整備された史跡指定地を楠葉台場跡保存整備事業用地として公有地化、平成28(2016)年9月1日、歴史学習の場として開放しました。
(現地説明板などより)
H19.4.28
Photo Canon EOS M6
H30.2.17(写真差し替え)
住所: 大阪府枚方市楠葉中之芝2丁目
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