山崎城〔鹿澤城・宍粟城陣屋〕(宍粟市・旧山崎町)
時代により名称が変わった山崎城
2007年06月26日
山崎には天正15(1587)年、木下勝俊が入封し、山城の篠の丸城から、麓に山崎城を築き移りました。元和元(1615)年六月、徳川家康の孫にあたる池田(松平)石見守輝澄が宍粟郡三万八千石ももらって山崎の地に再び城を築きました。 寛永8(1631)年、赤穂城主であった弟の政綱の死去により佐用郡と赤穂郡の内から三万石を加えられて六万八千石となりました。
寛永15(1638)年に起こった御家騒動により、同17(1640)年、領地没収となり、代って岸和田城より松平周防守康映が城主となり宍粟郡、佐用郡の内五万石を賜りました。この城は、宍粟、佐用を相和した城であることから、城の名を「宍佐和城」と名づけました。
康映は城地を整え城下の繁栄をはかりましたが、在城十二年余りで慶安2(1649)年、石見国浜田に移りました。
その後には、岡山県から池田光政の弟、池田(松平)備後守恒元が城主となり宍粟郡の三万石を賜りました。
寛文11(1671)年、恒元が死去し、その子池田豊前守政周が後を継ぎましたが、延宝5(1677)年政周がなくなり養子の池田数馬恒行が後を継ぎました。
延宝6(1679)年幼君恒行も江戸で急逝、家を継ぐ子がなく、御家は断絶、領地は一旦幕府の領地となり、延宝7(1679)年、本多肥後守忠英が一万石の城主となりました。以前と異なり1万石の城地のためそれ以来ここを「宍粟城陣屋」と呼びました。
その後、藩主九代が継続し明治維新となり、明治5(1872)年、学制頒布により、この地の山崎藩邸がそのまま学校になり、現在の山崎小学校に至りました。敷地は現在本多公園と山崎小学校になっています。
現存する遺構は、山崎藩陣屋門(紙屋門)と左右の土塀と石垣が残っています。
Photo Canon EOS 30D
H19.6.23
住所: 宍粟市山崎町鹿沢
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