篠ノ丸城(宍粟市・旧山崎町)
黒田官兵衛も入城した篠ノ丸城
2007年06月26日

篠ノ丸城(ささのまるじょう)は南北朝時代初期に釜内小次郎範春により築城されたとされています。
また、「赤松家播備作城記」では、南北朝時代に赤松貞範の長男顕則が初めて篠ノ丸城を築いたとしています。
赤松一族の西播磨守護代宇野氏は、宍粟郡広瀬(山崎町中心部)に居館を置き、その背後の山上に築かれた城が篠ノ丸城です。
その後嘉吉の乱により落城しましたが、赤松政則が赤松家を復興させた時に篠ノ丸城も宇野氏を城主に迎えました。
しかし、天文7(1571)年に出雲の尼子氏の侵略を受けました。そして、その後宇野政頼の長男満景が城主となりましたが、天正2(1574)年、父子の不和から政頼は満景を廃嫡し殺害したと伝えられています。その後、家臣の内海左兵衛が城代となりましたが、天正8(1580)年の羽柴秀吉の攻撃により長水城と共に落城しました。
黒田家の正史「黒田家譜」は、宇野氏滅亡後に黒田官兵衛が「山崎の城」に居城したと記しており、これを篠ノ丸城にあてる説があります。確実な史料から官兵衛が山崎を領有するのは天正12(1584)年7月のことで、天正15(1587)年7月に豊前に移封となるまでこの地を治めました。
なお、江戸前期に成立した「宍粟郡守令交代記」には「役人・奉行・当地に居住といへり」とあり、平素は多忙な官兵衛にかわり代官が在城していたと考えられます。
官兵衛の後は天正15(1587)年に木下勝俊が龍野から入封してきました。その時に篠ノ丸城は廃城となり、平城である山崎城が築かれました。
城は、北西から延びる山塊の東端(篠山、標高324m)に長方形の主郭(東西40m、南北50m)を置いています。主郭は、南西側に土塁と堀を備え、現状では南側の土塁中央が開口し「出入り口」となっています。
主郭西側の尾根上には南北両側を通路に取り囲まれた方形郭が連なり、尾根西端を三重の堀切で遮断しています。主郭から北側へも尾根上に二列の方形郭を段々に連ね、その東西両側に通路を設けています。
篠ノ丸城の最大の特徴は、北端の出入り口から西端三重堀切の間の傾斜の緩やかな北側斜面が、畝状竪堀群で覆い尽くされていることです。竪堀群の上には横堀、土塁、通路が対応して城の北西面の守りを固めており他に類例のない仕様となっています。このような竪堀群は本城の長水城には見られない一方で、篠ノ丸城では長水城のような石垣の使用は確認されていません。
(現地説明板より)
車で最上山公園に登り、そこから歩いて15分程度の道のりを歩きます。頂上には堀の跡、石碑、慰霊塔があります。
H19.6.23
Photo SONY NEX-7
H26.4.19(写真差し替え)
住所: 兵庫県宍粟市山崎町横須
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