二本松城〔霞ヶ城〕(二本松市)
奥州探題、二本松畠山氏の居城・二本松城〔霞ヶ城〕
2007年07月13日
二本松城は、室町時代中期に奥州探題として下向して四代目の畠山満泰によって築城されました。畠山氏歴代の居城として140年余り続きましたが、天正13(1585)年、当時の城主畠山義継は、伊達政宗に攻められようとしていました。義継は伊達政宗の父輝宗に降伏を申し出て、屈辱的な条件でしたが許されました。しかし、義継は宮森城から輝宗を拉致し、阿武隈川畔の粟ノ巣の合戦で政宗により輝宗・義継共々射殺されました。翌年、二本松城は義継の子、国王丸(畠山義綱)を立て籠城しました。しかし、結局は落城し片倉景綱・伊達成実などが城代として入城しました。
天正18(1590)年、豊臣秀吉の奥州仕置により、城は会津若松城を与えられた蒲生氏郷の支配下に入り、蒲生郷成らが城主となりました。その際石垣が積まれ近世城郭としてその姿を整えました。
その後、上杉・蒲生氏の会津入封に伴い、その管理下に置かれ城代が置かれました。加藤嘉明が会津に入封した寛永4(1627)年には加藤氏の与力大名の松下重綱(太閤記に出てくる松下嘉兵衛之綱の子)が入城し、二本松藩を立藩しました。翌年の寛永5(1628)年には松下氏は三春に転封されたため、加藤明利(嘉明の次男)が城主となりました。
寛永20(1643)年に加藤明成(嘉明の嫡男)が会津藩を改易となり、同時に二本松城主の明勝(明利の子)も改易となったため、白河藩より丹羽光重が10万700石で移封されました。その際に二本松城は大改修を行いました。幕末まで
慶長4(1868)戊辰戦争での新政府軍との徹底抗戦により城内・家中屋敷の全てを焼失し、城は7月29日に落城しました。
麓の居館跡から、本丸石垣までは見どころも多く、規模の大きな山城です。日本100名城の一つにも指定されています。
平成25(2013)年の大河ドラマ「八重の桜」の第24回「二本松少年隊の悲劇」の「八重の桜紀行」で紹介されました。
Photo Canon EOS 30D
H19.6.28
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