浜田城・浜田藩追懐の碑(浜田市)
司馬遼太郎による浜田藩追懐の碑
2007年09月10日
浜田城の入口付近、浜田護国神社の境内に作家司馬遼太郎の「浜田藩追懐の碑」が平成元(1989)年に建立されています。
司馬遼太郎は幕末活躍した長州藩士大村益次郎(村田蔵六)の小説「花神」で第二次長州征伐(四境戦争)における石州口の戦いの取材のため、浜田に滞在したことがあるそうです。
浜田城
石見國は、山多く、岩骨が海にちらばり、岩根に白波がたぎっている。
石見人はよく自然に耐え、頼るべきは、おのれの剛毅と質朴と、たがいに対する信のみという暮らしをつづけてきた。
石見人は誇りたかく、その誇るべき根拠は、ただ石見人であることなのである。
東に水田のゆたかな出雲があり、南に商人と貨財がゆきかう山陽道があり、西方には長門・周防があって、古来策謀がそだち、大勢力の成立する地だった。
石見はそれらにかこまれ、ある者は山を耕し、ある者は砂鉄や銀を堀り、ある者は荒海に漕ぎ出して漁をして、いつの世も倦むことがなかった。
浜田の地に城と城下がつくられたのは、江戸初期であった。幕府は、この城をもって、毛利氏という外様藩に対するいわば最前線の牙城とした。
以後、藩主は十八代を経、城は二百四十八年つづいた。幕末、西方の長州藩が革命化して、幕府の規制から離れた。
長州軍は時のいきおいを得、また火力と軍制を一新させ、各地で幕軍を破った。
ついには浜田城下に押しよせた。浜田藩は和戦についての衆議がまとまらず、さらには二十五歳の藩主松平武聰は病臥中でもあって、曲折のすえ、みずから城を焼いてしりぞいた。明治維新に先立つ二年前の慶応二年(一八六六)のことである。
いま、城あとは苔と草木と石垣のみである。それらに積もる風霜こそ、歴史の記念碑といっていい。
司馬遼太郎
Photo Canon EOS 30D
H19.9.5
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