古宮城(新城市・旧作手村)
三河唯一の甲州流築城術の城・古宮城
2008年04月16日

古宮城は、新城市(旧作手村)にある城です。
平成29(2017)年4月6日、続日本100名城(150番)に選定されています。
武田信玄が元亀3(1572)年に築城し、縄張りは馬場信春が設計したと考えられています。
元亀4年(1573)に武田信玄が逝去すると、当地の領主であった奥平定能・定昌親子は徳川家康に内通して武田家から離反しました。この時武田軍は奥平親子を捉えようと争いになり「古宮城の戦い」が起こりました。奥平親子の援軍として駆けつけた徳川家康軍は手薄となった古宮城にも攻め入り、城内から武田軍を一時、撤退させたといいます。その後、古宮城には武田勝頼の命を受けだ小場与一らが作手机番として天正2(1574)年に入城したことが知られています。しかし、その翌年の天正3(1575)年に「長篠・設楽原の戦い」で武田勝頼が減田信長と徳川家康の連合軍に敗北すると、当地における武田方の影響力は衰退しました。古宮城が武田の拠点として存続した期間は、わずか3年余りでした。
城跡は東西約250m、南北約200mで比高差は25mを測る独立丘陵地に所在しています。当時の城地周辺は東・南・北の三方を湿地(泥炭湿原)で囲まれ、地続きは西側のみであったといわれています。
城内は中央部に設けられた南北方向に延びる大堀切によって、守備の要となる西地区と、城将や兵が駐屯する居住域的な東地区の2地区に分けられます。西地区の特色の1つに、侵入してくる敵を一列の隊列に並ばせる土塁状の登城道があります。逃げ場や隠れ場を失った敵を主郭や東地区の高い場所から弓矢などで狙い易くするよう、巧みに土塁と堀を配して高めた防備の工夫が分かります。
一方、東地区は主郭や横堀で囲まれた山麓付近に広い平坦地(曲輪)が形成されており、大勢の人や物を収容していたことが考えられます。中でも主郭内の仕切り土塁西側の平坦地は城内でも一番高い場所にあたり、信玄や勝頼らが入城した際に使用された場所であった可能性も推測されています。
また、西地区主郭の西側で確認される半円状の堀、西地区主郭の南北2カ所の虎口、西地区と東地区を結ぶ土橋から東地区主郭に至る城郭構造は「丸馬出」と呼ばれる防御施設となり、さらに土橋から至る東地区主郭前面両袖枡形虎口と併せて古宮城の攻守をより一層強固なものにしています。
古宮城は丘陵全体に土塁、堀、曲輪などの戦国時代の遺構がほぼ完全な形で現存する、全国的にも希有な城郭です。さらに、武田家の全盛期に築城された最新の城郭であり、築城当時に近い姿・形であろうと考えられている点でも学術的注目度の非常に高い城郭と評価されています。また、武田方の徳川に対する三河進出の拠点城郭としての性格のほか、「丸馬出し」「両袖枡形虎口」、「横堀」など、これまで武田方や徳川方の特色とされてきた遺構が混在していることで、「長篠・設楽原の戦い」以降に徳川方が改修して古宮城を存続させた可能性も指摘されています。
(現地説明板などより)
H20.3.22
Photo Canon EOS 5D MarkⅢ
H29.5.3(写真差し替え)
住所: 愛知県新城市作手清岳
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