小豆坂古戦場(岡崎市)
織田氏と今川氏、松平氏の古戦場・小豆坂古戦場
2008年04月20日
天文4(1535)年、松平清康が尾張守山で家臣に殺されると、弱体化した松平氏に対して、織田信秀は安祥城を拠点として矢作川の東岸に進出を図りました。
天文11(1542)年、今川義元は軍勢を生田原に進め、出撃してきた織田勢と小豆坂で戦いました。この時に織田勢の7名が槍をふるって奮戦したので、小豆坂七本槍と呼ばれました。この時彼らが槍を立てて休息した松が鎗立松と伝えられています。これを第一次の小豆坂の戦いといいますが、この戦いは無かったとの説もあります。
その後、天文17(1548)年、織田信秀は松平広忠の岡崎城を攻めるため出陣しました。今川義元は松平広忠救援のため、太原雪斎を派遣し織田勢とこの地で戦いました。松平広忠の家臣である酒井正親らの活躍により、今川・松平連合軍が勝利しました。これが第二次小豆坂の戦いです。
桶狭間の戦い後、独立を果たした徳川家康は、三河一向一揆に苦しみました。
小豆坂は再び一揆勢との戦いの舞台になりました。永禄7(1564)年、徳川家康が土呂・針崎の一向一揆勢と小豆坂・馬頭原で戦い、家康勢が勝利しました。
光が丘女子高前の交差点の南東側に石碑と案内板があります。
ただし、石碑は昭和62(1987)年に別の場所から写されたもので、鎗立松碑と血洗池碑はいずれも付近の別の所から移設したものです。
Photo Canon PowerShot G9
H20.3.22
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