大石内蔵助良雄外16名が預けられた細川越中守綱利の屋敷跡
2008年07月28日
「大石良雄外十六人忠烈の跡」は、赤穂事件で大石内蔵助良雄、吉田忠左衛門兼亮、原惣右衛門元辰、片岡源五右衛門高房、間瀬久太夫正明、小野寺十内秀和、間喜兵衛光延、磯貝十郎左衛門正久、堀部彌兵衛金丸、近松勘六行重、富森助右衛門正因、潮田又之丞高教、早水藤左衛門満堯、赤埴源蔵重賢、奥田孫太夫重盛、矢田五郎右衛門助武、大石瀬左衛門信清の17人が預けられた肥後熊本藩(54万石)細川越中守下屋敷の一部です。
当時の肥後藩主5代綱利は、12月15日老中稲葉丹後守正往(下総佐倉藩主)から大石内蔵助外16人御預けの命を受けると、総勢875人に17挺の駕籠と予備として5挺の駕籠を用意させ、大目付仙石伯耆守久尚の屋敷に送りました。
引渡を受けたのは午後10時頃で、この地に到着したのは午前2時過ぎでした。
この様な大部隊を繰出したのは、藩の威武を示すとともに上杉家が親の仇たる四十六士を襲撃するかもしれないとの噂があったためです。
細川綱利は、大藩の威力と識見を以て優遇しました。御預四家のうちで即日引見したのは細川家だけでした。
元禄16(1703)年2月4日午後2時、上使の御目付荒木十左衛門政羽、御使番久永内記信豊から切腹を申渡し、大石内蔵助が一同を代表して「切腹仰せ付けられ候段有り難き仕合に存じ奉り候」と礼を述べて御請しました。
家臣の中から介錯人を出すよう命ぜられた細川家は17人の切腹に17人の介錯人を選定しました。
切腹の場所は大書院舞台側わき、大書院上の間の前庭で、背後に池を負った位置でした。切腹の座には畳3枚を敷き並べ(細川家以外は2枚)その上に木綿の大風呂敷を展べ、背後も左右も白の幔幕を張り廻らしました。
大石内蔵助は安場一平の介錯で切腹しました。
都営高輪アパート中央入り口には、「大石良雄等自刃ノ跡」と記された古い石碑が建っており、突き当たりに門があり説明看板などがあります。
ホームページURL:「大石良雄等自刃ノ跡」の石碑(写真下)
Photo Canon PowerShot G9
H20.7.13
住所: 港区高輪1丁目