宇陀松山城〔秋山城〕(宇陀市・旧大宇陀町)
遺構がよく残っている宇陀松山城(秋山城)
2008年09月27日
宇陀松山城は、旧名秋山城と呼び、戦国時代に秋山氏が城を築き本拠地としていました。
天正13(1585)年に秋山氏が追放された後、豊臣秀長の領地となり、配下の武将により改修されました。
慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦後、福島正則の弟福島掃部頭孝治(別名福島高晴・正頼とも)が城主となり、本格的な近代城郭として大改修が加えられました。
元和元(1615)年、孝治の改易にともない松山城は破却されました。この城割役を担ったのが小堀遠江守政一(遠州)と中坊左近秀政です。
その後は織田信長の次男信雄が城主となりましたが、織田氏は、山麓に「御上屋敷」や「長山屋敷」を設け藩政を行いました。
しかし、元禄7(1694)年に4代目藩主織田信武が家臣2人を殺害のうえ自殺した為、翌8(1695)年 領地を没収され、藩主となっていた織田信休は減封の上、丹波柏原へ転封となり、 以後天領となりました。
本丸付近には石垣など遺構がよく残っています。眺望も良く、お勧めの城です。
平成7(1995)年から行われた発掘調査の結果、大規模な石垣や本丸御殿跡などが見つかり、織豊期から江戸時代初期にかけての壮大な城郭の姿が明らかとなりました。このことにより、宇陀松山城跡は平成18(2006)年に国の史跡に指定されました。また、平成29(2017)年4月6日には(公財)に日本城郭協会から続日本100名城に選ばれています。
城跡の中心である本丸や天守郭からは、遠く高見山から大峰山脈にかけての山々の眺望を楽しむことができ、「奈良県景観資産」四神八景・青龍に登録されています。
H20.9.13
Photo EOS 5D MarkⅣ
H31.4.6
住所: 奈良県宇陀市大宇陀区
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