土田城(可児市)
土田氏・生駒氏の居城だった土田城
2008年10月05日
土田城(どたじょう)は文明年間(1489~87年)に近江の佐々木氏の一族であった山内秀久が土田に移り土田秀久と名乗り築城したといわれています。
土田氏は、秀久・泰久・政久と続きます。
秀久は、生駒家広の娘を妻としました。長男の泰久が生まれた後に家広と秀久は不和になり、妻を離別しました。家広の家で生まれたのが次男の政久です。
土田宗家は土田源太夫は弘治2(1556)年に明智長山城において討死して土田氏宗家は断絶しました。
政久の二男、甚助は丹羽郡小折城主の生駒家に養子となり生駒親重と改めました。
その後、親重・子の親正が土田城を継ぎましたが、天正2(1574)年に土田城を退去したため金山城の森氏の支城となりました。
生駒親正は織田信長、豊臣秀吉に使え、最終的には讃岐17万石の領主となりました。
なお、織田信長の母親の土田御前は政久の娘といわれています。
約10メートル四方の小規模な曲輪が南北にそれそれ二面配されています。土田氏や生駒氏は、山麓の居館に居住し、合戦の際には土田城に立て籠ったと考えられます。
江戸時代の記録にみるでは、尾張藩士の松平君山(秀雲)が宝暦6(1756)年にまとめた「濃陽志略」に生駒甚助(親)が天正年間に居城したと記されている。また、同じく尾張藩士の岡田啓が天保期以降にまとめた『新撰美濃志』には、生駒氏城址を天正期に生駒道寿(親重)、同甚助が住み、俗に「土田の城山」と呼ばれ、地元の人は「生駒三吉の城山」と言っていたと記されています。
大脇地区の大脇公民館に説明看板が建っており、近くに登城口があります。ただし、本丸直通の登城道が通行止めですが、川沿いの遊歩道をしばらく進むと出丸へ至る登城口があります
H20.9.28
Photo Canon EOS 5D Mark Ⅳ
R5.9.28(写真差し替え)
住所: 岐阜県可児市土田
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