洲本城〔山城・上の城〕(洲本市)
安宅氏、仙石氏、脇坂氏の城・洲本城(山城)
2009年07月11日
洲本城は戦国時代の山城(上の城)と、江戸時代の平城(下の城)と2つあります。
大永6(1526)年、安宅治興が三熊山に築城しました。
治興の後はその養子安宅冬康(三好長慶弟)が入り、冬康死後は長男信康さらには二男清康へ受け継がれました。
天正9(1581)年、織田信長の命により羽柴秀吉が淡路を攻略しました。その際、安宅清康は降伏し開城後安土を訪れた後病死しました。
天正10(1582)年長宗我部元親は畿内進出を計り、淡路土着の水軍の将菅平衛門に洲本城を占領させました。しかし、6月に山崎の戦いに向かう途中羽柴秀吉は仙石秀久等に奪還させ、城は仙石秀久に与えられました。秀久が讃岐高松城主になった後は、脇坂安治が城主となり、本格的な築城がなされました。
関ヶ原の戦いの後、徳川家康は洲本城を藤堂高虎に預けました。淡路は慶長16(1610)年、池田輝正の3男忠雄の領地となりましたが、由良城を本拠としたため、洲本城は廃城となりました。
大坂夏の陣の後淡路は徳島藩の蜂須賀氏の所領となり、家老の稲田氏一族が由良城代となりましたが、寛永8(1631)年、由良は淡路の東南隅にあり、土地も矮小で城下の経営も出来ないことを理由に、洲本に淡路の拠点を移しました。これは城下町ごとの大移転であったため俗に「由良引け(ゆらびけ)」と呼ばれています。しかし稲田氏は山裾に城を築き、三熊山上の城郭は使用しませんでした。
現在は曲輪、池、石段、石垣、櫓跡などが残っています。
現在ある模擬天守は、昭和3(1928)年に御大典(昭和天皇の即位式)を記念して、鉄筋コンクリート製で築造されたものです。
江戸時代の天守を復元したものではないが模擬天守としては日本最古のものです。
平成11(1999)年1月14日、国の史跡に指定され、平成29(2017)年4月6日、続日本100名城に選定されています。
Photo Canon EOS 30D
H21.7.8
住所: 兵庫県洲本市小路谷
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