上杉氏の会津移封時には直江兼続が屋敷を与えられ、後に山鹿流兵学の祖・山鹿素行生誕の地となった場所
2005年11月10日
この場所は城にも近く、さらに往時の主要な道路である「本一之丁」と「大町通り」が交差する場所であるため、蒲生氏郷による町割以後この地には重臣のひときわ大きな屋敷が置かれました。
慶長3(1598)年に越後から会津120万石の城主として移ってきた上杉景勝は、上杉家の筆頭家臣である直江兼続の屋敷にと、ここの場所を与えました。
兼続は、さまざまな武将たちと親交があり、また景勝からも厚い信頼を受け、米沢領(約6万石)の支配を任されていました。 さらに慶長5(1600)年には、景勝が神指原に新城を築こうとした際、兼続が普請奉行としてその指揮にあたりました。しかし、同年秋の関ヶ原の合戦で徳川家康が勝利すると、上杉家は敵側として米沢30万石へ減封され、兼続もこれに従いました。
また、後に江戸時代の代表的兵学者、山鹿素行が生まれた場所でもあります。
山鹿流兵学を教え、いわゆる赤穂四十七士の生みの親ともなったことは余りにも有名で、元和8(1622)年8月16日、このち町野左近の邸内に生まれました。
時の会津藩主は蒲生忠郷(氏郷の孫)であり、この辺一帯は武家屋敷がたくさん並んでいたところです。
素行は通称を甚五左ヱ門といい、父貞以が伊勢亀山から会津に来た年に生まれたといわれます。
6歳の時、父に従って江戸に出て、9歳で林羅山の門に入り儒学・国学・神道・兵学の奥義をきわめ、特に兵学においては山鹿流の一派をなすに至り、その名声は天下にとどろきました。
なお、現在の碑は「山鹿素行誕生地 大正15年春 元帥伯爵東郷平八郎書」と雄渾な文字が刻まれており、大正15(1926)年4月、東郷平八郎の書によって建立されたものです。
H11.9.9
Photo SONY NEX-7
H24.12.28(写真差し替え)
住所: 福島県会津若松市山鹿町1-25