西郷邸跡(会津若松市)
西郷家は藩祖以来の重臣で、戊辰戦争の際の当主は国家老1700石の西郷頼母近悳でした。
明治元(1868)年8月23日朝、西軍が鶴ヶ城下に侵入し、急を告げる早鐘が打ち鳴らされると会津藩士・家族達は籠城戦に備え競って入城を急ぎました。
西郷邸では、頼母の留守を預かる妻・千恵子が長男吉十郎を城に送り出した後、最早これまでと一族を集め、幼い者や子女は足手まといになり、恥辱を受ければ家名の恥になると説き聞かせ、母・律子(58歳)をはじめ、季子(2歳)までの21人揃って辞世の和歌を詠み自刃しました。
「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」 千恵子(34歳)
「死にかへり幾度世には生きるとも ますら武雄となりなんものを」妹 眉寿子(26歳)
「武士の道と聞きしをたよりにて 思いたちぬる黄泉の旅かな」 妹 由布子(23歳)
「手をとりてともに行なばまよはじよ いざたどらまし死出の山みち」
長女 細布子(16歳)下の句 次女 瀑布子(13歳)上の句
この日、郭内では230余名の婦女子が自刃するという大きな悲劇を生む戦いとなりました。
西郷一族21人の墓は、鶴ヶ城南、門田町北青木善龍寺にあり、毎年5月、その霊を弔う「なよ竹祭り」がしめやかに行われています。
H11.9.9
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H24.12.29(写真差し替え)
住所: 福島県会津若松市追手町6-6
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