天寧寺(会津若松市)
萱野権兵衛父子、近藤勇、土方歳三の墓がある天寧寺
2005年11月11日
天寧寺は、山号は萬松山、曹洞宗の寺院です。
応永28(1422)年、会津にきた傑堂禅師が11代蘆名盛信の建立により創建されました。
かつては会津曹洞宗の僧録司で、末寺33カ寺、12の寺院をかぞえました。
蘆名氏は、天正17(1589)年の摺上原の戦いで伊達政宗に敗れ、天寧寺も焼失しました。蘆名氏の菩提寺としての面影は、本堂の礎石にわずかに残るのみです。
天寧寺の裏手の墓地には新選組の近藤勇の墓があります。土方歳三が遺髪もしくは首を持っていて会津での戦いの際、ここに仮埋葬したといいます。
墓石には貫天院殿純忠誠義大居士の法号と、その上に丸に三つ引の近藤家の家紋が彫られています。4月25日の命日には、墓前祭りが開催されます。隣には土方歳三慰霊碑が後世建てられました。
また、藩主松平容保が京都守護職にあった際の国家老で、戊辰戦争の責任者となり明治2(1869)年に切腹した萱野権兵衛と、その次男郡長正の墓もあります。会津萱野家の始祖は萱野権兵衛長則と称し、加藤嘉明の上級家臣として国替えにより会津に移りましたが、嘉明の嫡子明成が石見に減封された後、会津藩主として高遠藩から最上を経て入府した保科正之に召しかかえられました。長則は寛文6(1666)年没し、ここ天寧寺に葬られ、代々天寧寺が萱野家の菩提寺となりました。
郡長正は戊辰戦争後の明治3(1870)年、会津の教学復興のために選ばれた藩内の少年7名の一人として現福岡県豊津町の小笠原藩藩校育徳館に留学しました。
郡長正は最年少ながら文武ともに秀でていましたが、郷愁を覚え母へ手紙を書きました。しかし、後に届いた母からの戒めの手紙を落とし、小笠原藩士に大衆の面前で罵られ、会津武士道を汚したとして明治4(1871)年5月1日、異郷の地において切腹しました。時に16歳でした。
小笠原藩は郡長正の死を悼み、会津の方角に向けて墓をたて、その霊を弔いました。
境内には会津藩の家老田中家の墓や、会津士魂の碑、小説「会津士魂」の作者、早乙女貢氏の墓もあります。
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Photo SONY NEX-7
H24.12.29(写真差し替え)
住所: 福島県会津若松市東山町大字石山字天寧208
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