飯盛山・白虎隊十九士の墓(会津若松市)
明治元(1868)年の戊辰戦争において飯盛山で自刃した十九士の墓です。8月23日(新暦10月8日)自刃した隊士の遺骸は、西軍により手をつけることを禁じられていました。約3ヶ月後村人により、密かにこの近くの妙園寺に運ばれ仮埋葬され、後この自刃地に改葬されました。
墓域には色々な碑が建っています。
・少年武士慰霊碑
白虎隊士と同じ年齢で県内各地及び新潟・栃木・京都で戦い、戦死した会津藩少年武士(白虎隊の仲間達)の慰霊碑です。
・松平容保公 弔歌の碑
戊辰戦役当時自刃した白虎隊士の殉難忠節に対し、九代藩主松平容保公が次の弔歌を詠まれたのを現河東町八田野の篤志家八田宗吉氏がこの碑に 刻み建てたものです。
「幾人の涙は石にそそぐともその名は世々に朽しとぞ思う」
源 容保
・会津藩殉難烈婦の碑
会津戊辰戦役で自刃又は戦死した婦女子二百余名の霊を弔うため昭和3(1928)年4月旧藩士山川健次郎氏(男爵、理学博士、帝大総長)等の篤志家によって建てられた顕彰碑です。
・ローマ市寄贈の碑
白虎隊の精神に深い感銘を受けたローマ市は昭和3(1928)年ローマ市民の名をもって、この碑が贈られました。
この碑の円柱は赤花崗で、ベスビアス火山の噴火で埋没したポンペイの廃墟から発掘した古代宮殿の柱です。
基石表面にイタリー語で「文明の母たるローマは、白虎隊勇士の遺烈に、不朽の敬意を捧げんが為め、古代ローマの権威を表すファシスタ党章の鉞を飾り永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る」裏面に「武士道の精神に捧ぐ」と刻まれてあったが第2次世界大戦後占領軍の命により削り取られた。
・フォン・エッツ・ドルフ氏寄贈の碑
昭和10(1935)年6月ドイツ国(現ドイツ連邦共和国)大使館政治担当外交官 Hasso Von Etzdorf氏が白虎隊精神を賛美して贈られた碑文と十字章です。
碑文訳「会津の若き少年武士に贈る」
第2次世界大戦後アメリカ進駐軍の手によって碑面を削り撤去されたものを昭和28(1953)年再刻のうえ復元されたものです。
(現地説明板などより)
H11.9.9
Photo Canon EOS 5D MarkⅡ
H24.12.29(写真差し替え)
住所: 福島県会津若松市一箕町大字八幡弁天下
関連リンク
タグ
地図
関連情報